天坊昭彦 てんぼうあきひこ

石油・石炭

掲載時肩書出光興産元社長
掲載期間2020/04/01〜2020/04/30
出身地東京都
生年月日1939/11/16
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他
入社出光興産
配偶者同僚の紹介
主な仕事福岡、石油開発、米国、倫敦社長、再生計画、上場、海外で手料理、ベトナム製油、東日本震災、武蔵野美術大理事長、成蹊学園理事・評議員会議長
恩師・恩人出光裕治、遠山寿一
人脈久保輝雄(父:宗像宮司)、吉田保之、出光昭介・昭、小笠原日出男、ファリハ(アラムコ)、高井邦彦
備考父:参院議員
論評

氏は出光興産の創業者・出光佐三氏に次いで二人目の「私の履歴書」登場となりました。出光興産では佐三氏を創業者とは呼ばず店主と呼び尊敬されていた。その店主の経営理念は、「人間尊重であり、会社を大きな家族と考え、どんな艱難に遭っても社員を馘首することなく、社員は事業の実践を通して社会に貢献していく」と言うものであった。実際、太平洋戦争後に海外からの引き揚げ社員1000名に対し、一人の解雇もせず役職員一緒に塗炭の苦労を共にして乗り切ったのでした。

1.国際金融課長で腕を磨く
氏の飛躍は、国際金融課長となったときプラザ合意により為替の大変化に見舞われたことで、国際金融(為替)の大局観を磨くことができた。そして、ロンドンに拠点のヨーロッパ社長として赴任し欧州全体の出光関連企業や事業を統括する立場になった。ここは、経理・財務、海外部、潤滑油、製造、石油化学、研究開発などを調整・統括するため、ミニ本社の機能を有していた。出光裕治副社長の指示で「海外店は自立せよ」を受け、果敢に行動した。その結果、余談になるが、氏は英国航空の機内誌“Business Life”1989年7月号特集に「ヨーロッパで活躍する日本人トップ10人」に選ばれた。ここには三井物産、野村證券、松下電器、住友銀行、ホンダなど一流企業の現地エリート社長ばかりがいましたが、その中で天坊氏、佐波正一氏(元東芝社長)、高田賢三氏(ファッションデザイナー)の3人が「私の履歴書」に登場しています。当時の現地の人たちにも高く評価された人物だったのですね。

2.海外でも家族主義の実践
出光興産の大家族主義を印象付けたのは、天坊氏が海外出張でご自身から手料理をふるまった記述でした。ドーハでは朝市で新鮮なハタやタイ、ヒラメ、タチウオやアジなどを買い、アブダビなどの近隣国の駐在員家族も入れて、得意の手料理をふるまう。身も厚いハタは5枚におろして昆布締めにするとおいしく食べられるからだ。これを食べた魚嫌いの子供たちがそのおいしさに奪い合って食べたという風景は家族ともに喜ぶシーンとして目に見えるようでした。社長時代にこのように駐在員と家族ぐるみで付き合うのは、氏の人望と組織団結を一層高めた感じがします。

3.苦節15年で株式上場
氏の最大の功績は、やはり非上場会社を公的な上場会社にするために用意周到な計画と根回しをしたことでした。金融自由化で現在企業はキャッシュフローや財務状況が重要視されるなか、有利子負債2兆5000億円では早晩行き詰まると考えた。そこで店主の理念「人間尊重主義で事業を通じて社会に貢献する」を守るためには、「事業を継続」することが「社員・家族を守り社会に貢献」と理解。店主の長男であり、大実力者の出光昭介名誉会長に対し、上場に賛同し支援してくださる出光昭副社長、吉田保之取締役販売部長、遠山寿一取締役総務部長らと一緒に説明し了承を得たことだった。この上場にこぎつけるまでの苦節15年間は氏の人格とひたむきな努力が実を結ばせたように思えた。

天坊 昭彦(てんぼう あきひこ、1939年11月16日 - )は、日本の実業家出光興産株式会社社長、石油連盟会長、武蔵野美術大学理事長などを歴任。

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