大谷米太郎 おおたに よねたろう

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掲載時肩書大谷重工業社長
掲載期間1964/03/19〜1964/04/12
出身地富山県小矢部
生年月日1881/07/24
掲載回数25 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
小学校
学歴その他31歳上京
入社酒屋奉公
配偶者関取時結婚
主な仕事人夫、ふろ屋、米屋、相撲取り、酒屋、東京ロール、満州,中国工場、大谷重工業、星製薬、相撲協会、ホテルニューオオタニ
恩師・恩人
人脈立浪親方、渡辺忠雄、広川弘禅、稲山嘉寛、大倉喜八郎、永野重雄、川島正次郎、朝倉文夫
備考タネ銭哲学
論評

1881年7月24日 – 1968年5月19日)は富山県生まれ。実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾嶽。太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。1964年、東京オリンピックの開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎はホテルニューオータニを建設し、社長に就任。ニューオータニは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も八幡製鐵が経営支援に乗り出して実権を失う。1962年、富山県立大谷技術短期大学(現:富山県立大学)を設立・寄付した。

1.関取マゲで酒店開業
勝ち越せばいよいよ十両という場所であったが、田舎の草相撲で失った左中指は、相撲取りには致命傷だったので場所前、相撲をやめる決心をした。そしてそれまでに貯めてあった80円を元手に酒屋を開業することにした。
 ともかく80円しか手元にない。その有り金を持って、私は新川の酒問屋に仕入れに出かけた。80円を一銭残らずはたいて酒をはじめ、みそ、しょう油を仕入れてきた。おかげで、その日の生活費は一銭もなくなった。当座の食糧としては一升の米と一本のタクワンがあるだけだ。しかも、タクワンを切る包丁もないから、私の持っていたナイフで用をたすありさまである。次に開店案内のチラシを近所に配らなければならないが、すでに私には一銭もない。仕方ないから後で払うといってチラシをつくり、これを家内と二人してまいて歩いた。それから、のれん代・・・、これも後払いである。
 「鷲尾嶽酒店」は、こうして大正2年(1914)7月11日に開業できた。初日の売り上げは12円、これでやっと、生活費ができたわけである。商売というものは、信用を得るまで薄利多売でいかねばならない。そしてだんだん信用がついたところで、はじめて5分とか1割とかの利益を組み入れることだ。こうして「安い」という評判をとった。また相撲時代のちょんまげを付けたまま商いに歩いたから、私は人気者となった。

2.関東大震災を「災い転じて福となす」に
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、私たち夫婦も丸焼けになった。さいわい妻も子供も無事だったので、私たち夫婦は、また死にもの狂いで働き始めた。手元には店の子が持ち出していた売り上げの2千円があった。銀行に預金があっても、モラトリアムで一人200円ぐらいしか出せなかった。私はこの資本で、まず飲食店を始めることにした。一杯50銭の「均一どんぶり」が飛ぶように売れた。それから1か月目には、「雑貨屋」を開いてあらゆる生活必需品を置いた。テーブル、障子、畳から茶わんまで。みな焼け出された人たちばかりだから、どんなものでも店に並べるそばから売れて行く。その金を転がしていった。店の者や会社の人間を近県にやって、どしどし生活物資を集めさせた。金は面白いように儲かった。
 酒屋、飲食店、雑貨屋、工場・・私は一人三役、寝る間を惜しんで働き続けた。お陰で焼ける前の3倍ほどの大きさになった。災いを転じて福としたわけだ。人間、苦労をしなければならないのは、ここである。私だって、みんなと同じく焼け出されている。その中にあって土間に寝、真っ黒になって働いたのは苦労の中から生まれた頑張りと、モノに動じない根性がそこにあったからだ。

3.ホテルニューオータニ建設の経緯 
私が元伏見宮邸跡の土地を買ったのは朝鮮動乱の終わりごろ(1953)だったと記憶している。この土地を某国の大使館が手に入れようとしていたから、安井誠一郎都知事が「大谷さん一つ買ってくれないか。日本の玄関先に、外国人の町をつくられては困るんだが・・」と言われ買った。その後、八幡製鉄社長の稲山嘉寛さんから総合事務所をつくるので譲って欲しい旨の要請があり、手放す気持ちになった。
 ところがこれを聞いた東京都が「売るくらいなら、東京オリンピックのためにホテルを造ってくれないか」と申し入れてきた。私はここでオリンピックのために一肌脱ぐハラを固め、所有地2万坪のうち1万坪をわずか13億円に低評価して現物出資した。このホテルの重役には、鉄鋼(八幡、富士、日本鋼管)をはじめ証券、商社、弱電機、ビール関係など有名どころ20数社から出ているが、こうした応援は私の男気を買ってくれたからである。そのうえ、オリンピック担当大臣だった川島正次郎さんらから、「ホテルを造ってくれるのはありがたい。政府が資金面を心配しましょう」とのありがたい話があった。おかげで、地下3階、地上17階のホテルが、オリンピック開催までには完成するだろう。

おおたに よねたろう

大谷 米太郎
ホテルニューオータニ庭園内の大谷米太郎像
生誕 1881年7月24日
富山県西礪波郡正得村
死没 1968年5月19日(満86歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 鷲尾嶽
職業 実業家力士
栄誉 紺綬褒章
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鷲尾嶽
基礎情報
本名 大谷 米太郎
所属部屋 稲川部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 幕下筆頭
データ
引退後 実業家
他の活動 美術品収集
備考

大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は、日本実業家稲川部屋所属の元大相撲力士四股名鷲尾嶽太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。ホテルニューオータニ創業者。

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