大槻文平 おおつき ぶんぺい

ゴム・セメント・鉱業

掲載時肩書三菱鉱業セメント会長
掲載期間1976/10/16〜1976/11/11
出身地宮城県丸森
生年月日1903/09/27
掲載回数27 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社三菱鉱業
配偶者縁戚娘
主な仕事労務、美唄・生野・直島、太平鉱業分離、セメント設立、三菱建設、日本石炭協会、日経連
恩師・恩人沼崎正、永野 護
人脈木川田一隆(中学3先輩)、福田一(一高)、伊藤保次郎、岸道三、瀬島龍三(徒)、永野俊雄(重雄の弟)
備考あだ名「首切り文平」
論評

1903年9月27日 – 1992年8月9日)は宮城県生まれ。実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。労務管理の重鎮として財界の中心人物であった。東京電力の木川田一隆は同郷で同窓だった。

1.炭鉱の労務係
昭和3年(1928)、北海道の美唄炭鉱に労務係として赴任したころは、世間では炭鉱をならず者の集まりぐらいに見ており、我々は何となく肩身の狭い思いをしていた。そこで労働者の教養、人格を高め、評価を高めることが我々の責務だという考え方を持つようになった。
 会社も、労働者を一人前にするため、善化行事を称して、産業人としてのまた社会人としての成人教育に相当力を入れた。その一つが“一夜講習会”というものである。一夜講習会は、講師から単に話を聞くだけでなく、一夜寝食を共にして話し合い、議論する。これは随分効果があったと思っている。同時に、若い労働者に対するスポーツ振興に力を注いだ。野球も盛んだったが、特にスキーは全道大会でジャンプや長距離競技に美唄の労働者が入賞するなど相当人気があった。
 一方、人事相談所を新設して労働者の私生活の面倒も見た。結婚の相談から夫婦げんかの仲裁、手紙の代書屋まで置いた。代書屋は重宝がられ、けっこう繁盛した。

2.「人民裁判事件」と「軽音楽事件」
終戦(1945)直後の労働運動は行き過ぎと見えるほど過激で、特に北海道ではソ連軍進駐の噂が強く流れ、一般に共産主義に迎合する雰囲気があったから大変だった。
「人民裁判事件」・・・この事件では賃金闘争に端を発したもので、組合の生産管理問題にまで発展した。闘争の過程で、当時の美唄礦業所の後藤太郎所長(故人)、野田東一副長(のち三菱金属常務)が強引に組合大会に連行され、いわゆる人民裁判にかけられた。後藤所長は組合員の蹴飛ばした机に当たり肋骨を折り、野田副長は40時間、一睡もさせられずこん倒、いずれも入院する騒ぎとなった。私が冬の美唄に着いてみると、組合はちょうど大会を開いていた。驚いたことに「会社は今や”首切り文平“を派遣しようとしている」と盛んにヤジ演説をしているところだった。
「軽音楽事件」・・この交渉には後藤所長、野田副長、炭鉱長と私が出席した。私たちは立錐の余地のないほど集まった労働者に取り囲まれ、ののしられ、罵声を浴びせられた。炭坑内から上がってきたばかりで応援に来た三井美唄の鉱夫がキャップランプを付けたまま机の上に上がって威嚇したりもした。私はこれまでにいろいろな交渉をやってきたが、このときほど気味の悪い交渉は最初で最後だった。
我々が引き揚げたその夜、炭坑長の有働君たちはもっとひどい目にあった。労組員は坑内帽のキャップランプの光線を眼先に照らしつけ、茶碗その他音の出るものを一斉に鳴らしながら一晩中、寝かせなかった。これがいわゆる「軽音楽事件」の名称がつけられた理由で、このとき会社側の2,3の職員が暴行を受け負傷した。この二つの事件を会社側が訴え、労組側が刑事罰を受けた。

3.老朽炭鉱の整理
老朽炭鉱の整理が一段落した昭和38年(1963)11月、私は前任社長の西島直己氏(現相談役)の後を受けて社長に就任した。39年時点で、三菱鉱業の炭鉱数は7と、合理化の始まった28年に比べ半減し、従業員数も1万人と、28年の三分の一に激減していた。しかし、出炭量は39年度424万トンと28年度の10%減にとどまっており、この間のスクラップ・アンド・ビルドの企業努力がいかに筆舌に尽くし難いものであったかを示している。
 その後、三菱鉱業でも老朽炭鉱だけの閉山では間に合わず、残存のビルド鉱でも一部の優良鉱を残してスクラップ化せざるを得なくなり、40年6月には美唄を第二会社として分離した。

大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日[1] - 1992年8月9日[1])は、日本実業家三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民

  1. ^ a b 大槻文平先生御略歴」『弘道』第961巻、日本弘道会、1992年12月。 
[ 前のページに戻る ]