大屋敦 おおや あつし

化学

掲載時肩書日銀政策委員
掲載期間1964/07/11〜1964/08/04
出身地東京都上野
生年月日1885/09/05
掲載回数25 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社逓信省
配偶者永井->大屋養子、妻(司法次官娘)
主な仕事海外視察2回、住友本社、住友化学(硫安事業)、軽金属統制会、日本板硝子、日本ビクター、日本ベークライト、原子力会議、日本青年協会
恩師・恩人利光平夫 、小倉正恒
人脈斉藤茂吉(開成同期)岩切章太郎(下)三村起一(住友同僚)三島由紀夫(実姉の孫)、野口遵、森矗昶
備考新門辰五郎の家系
論評

明治18年(1885年)9月5日 – 昭和45年(1970年)8月18日)は東京生まれ。実業家。元住友化学工業社長。大審院判事を務めた永井岩之丞の六男。逓信省電気局技師から住友総本店に入り、日本板硝子取締役、住友合資の経理部長、総務部長を経て住友化学専務となり、昭和16年(1941年)社長。ほかに住友アルミニウム製錬社長・会長、住友本社理事、軍需省顧問なども歴任した。戦後、昭和23年(1948年)住友ベークライト会長、気象協会会長、科学技術庁顧問を兼ねた。

1.実姉の孫が三島由紀夫
私の兄弟は、同じ父母の下に全部で12人である。男5人と女子の嫁した相手がみな帝国大学出身者であったので、当時珍しい一家だと評判を得た。この中で、最もジャーナリスティックに興味あるのは姉で、昔の文学少女であった。泉鏡花を非常に愛読していた。この姉は兵庫県人の平岡定太郎に嫁した。平岡は初代の樺太庁長官として、パルプ業を始め樺太開発には大いに尽力した人だが、後に政争に巻き込まれ失脚した。
 この姉の孫に平岡公威というのがいる。公威の名は、昔工学博士に古市公威という土木界の大元老がおり、姉の夫である前記定太郎が、博士にあやかるよう息子の長男にその名を頂戴したことによる。この平岡公威のペンネームが三島由紀夫なのである。

2.住友の行動規範(重要心得え)
8年間の逓信省奉職の後、住友総本店に入社したのは大正7年(1918)7月であった。鈴木馬左也さんがその総理事、後に総理事なられた湯川寛吉さんが理事兼住友銀行常務、やはり後に総理事を継いだ元大蔵大臣の小倉正恒さんが支配人であった。私は入社以来、この人々から、事業上のことはもとより、日常の些事に至るまで指図をうけることになったことは、私一生涯のしあわせであった。
会社で一番大切なのは受付と電話交換手であること、自分が先に出ないで、目上の人を電話口に待たせることなどはしないこと、食卓に招いた人の名札を書き間違えてはならぬこと、事業の繁栄は自分の力によるものではなく、国家、社会の恩恵によるものだから、報恩の精神を忘れてはならぬことなどの心得えを、事にふれ、時に応じ、身を持って教えられた。「浮利を追うべからず」という住友の家憲なども、題目だけでは、多数の社員に浸透するはずがない。要は最高統率者の実践躬行にあると私は信じている。

3.愛媛県新居浜の埋立て大造成地を完成
サンド・ポンプによる新しい海面の埋め立て方法を初めて日本で企業化したのは明治末年に近い頃で、浅野総一郎翁の手で鶴見海面に試みられたのを嚆矢とする。ちょうど時を同じくして、別子銅山の鉱脈衰退への万一の対策のため、銅山の周辺すなわち新居浜を中心に大規模な工業地帯を創設せんとする議が、住友幹部の間で論ぜられ、その第一歩として、新居浜の海面10万坪の埋め立てを、鶴見海面埋め立ての実績を持つ関毅(はたす)工学士を通じて、埋立会社に依頼した。今の住友化学の大江製造所の敷地である。大分県佐伯湾における海軍用地の埋め立てを除けば、日本のサンド・ポンプによる最初の造成地の一つであろう。
 爾来このサンド・ポンプ法、ならびに工場排泄物を利用する方法とにより、逐年その造成面積を増し、ついに日本屈指の工業地帯を形成するようになった。その敷地の上に住友金属鉱山は、金、銀、銅、ニッケルなどを、また住友化学工業は硫安、尿素、化成肥料、硝酸をはじめ、アルミニウム、塩化ビニール、各種の合成繊維、合成樹脂を製造し、その面積はおそらく100万坪に達するであろう。

大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年9月5日 - 昭和45年(1970年8月18日)は、日本実業家住友化学工業社長を務めた。

大審院判事を務めた永井岩之丞の六男[1]。姉・夏子は内務官僚・平岡定太郎の妻(作家三島由紀夫の祖母)。

  1. ^ 大屋敦 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 名古屋大学大学院法学研究科. 2022年12月15日閲覧。
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