大倉敬一 おおくら けいいち

食品

掲載時肩書月桂冠相談役
掲載期間2010/10/01〜2010/10/31
出身地京都府
生年月日1927/03/25
掲載回数30 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
同志社大学
学歴その他日大農学
入社第一銀行
配偶者奈良山林業娘
主な仕事1石(1升瓶100本)、全国行脚、5万石→100万、CM(ダークダックス、山本富士子)、多角化、米国進出(弟恒彦)、他外国にも
恩師・恩人西川甚五郎、沢田房一
人脈大川橋蔵(舞妓:まり子)、酒蔵元(池田勇人、竹下登、宇野宗佑)、廣瀬太郎、國分勘兵衛、千宗室
備考花街理事長、能楽理事長
論評

1927年3月25日 – 2016年8月15日)は京都生まれ。実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。13代目当主。社長在任時には、四季醸造(日本最初の四季醸造システムを備えた1961年(昭和36年)竣工の酒蔵「大手蔵」)による、高品質の日本酒を安定的に造る体制を基に、吟醸酒などの高級酒の商品化や、パック詰めの商品を発売するなど、市場ニーズの多様化への対応に取り組んだ。1984年(昭和59年)には、常温流通タイプの生酒を業界で初めて商品化した。また京都・伏見の酒造業界のけん引役だっただけでなく、1998年(平成10年)から京都市観光協会の副会長、2008年(平成20年)から京都伝統伎芸振興財団(京都市)の理事長を務めるなど、京都の花街といった伝統文化の振興にも力を注いだ。

1.本社製造部
1957年11月、取締役として本社製造部に異動を命じられた。製造部は造り酒屋の本丸で、酒造技術の研究や製品開発にあたる、月桂冠の心臓部である。酒造りの現場は杜氏(とうじ)と蔵人(くらびと)と呼ぶ職人たちの世界だ。月桂冠の研究部門には戦前から京都大学など国立大学を中心に醸造を学んだ優秀な人材が集まっていた。事務を担当する社員は原料米の購入、地方メーカーなどと提携する移入酒関連のこと、生産計画の立案、労務管理、品質管理が主な仕事だ。
 大正末に父の治一が家業に入ったころ、月桂冠の生産量は年間3万石(一石=180ℓ)ほど。越前流、丹波流、但馬流などの杜氏たちが冬場の「寒造り」を担っていた。製造部に配属された57年の販売量は5万石あまり。だが、大増産の戦略が実現に向けて追い込みを迎えていた。冬場の寒造りという酒造業界の常識を打ち破る「四季醸造」への挑戦があった。

2.四季醸造
この醸造はその名の通り、年間を通して酒造りに取り組む、画期的な醸造法である。日本酒といえば「寒造り」を連想するが、江戸中期以前は四季折々に造られていた。だが、幕府が米政策の一環で寒造りを奨励、その名がずっと続いた。季節を問わずに仕込み、夏にも搾りたての酒を出荷したい。それが清酒業界の悲願で、多くの先人たちが明治時代から挑戦してきた。最も難しいのが夏場の醸造である。
 純粋で優良な酒母は気温が低く、空中の微生物が少ない冬場は安全に育てやすいが、温度も湿度も高くて空気中に細菌が増えやすい夏場の酒母や発酵するもろみをどう制御するかが課題だった。それを蔵の中を冷やし、除湿と除菌に工夫を重ねた。米を蒸し、麹を造り、酒を搾るのは過酷な労働だが、機械にできる部分は機械に任せ、工程を連続化して、一つのシステムとして四季醸造は完成した。
それにより1956年に約5万石(日本酒1石は180リットルで一升瓶100本分)であったが、父が5万石を10倍の50万石に伸ばし、業界トップの地位を不動のものにした。この大躍進を支えたのは年間を通して酒造りに取り組むこの画期的な醸造法であった。

3.全国行脚
この「四季醸造」の完成を記念して翌1957年、記録映画をつくった。新しい酒造りの様子を活写した力作だ。「全国で上映しよう」という話が持ち上がり、父の社長に全国行脚を命じられた。各地の卸、小売業界向けに映画会を開いてPRするのが狙いで、まず仙台から函館、札幌などの得意先を回れという。
 当時、支店や営業所がない県では、メーカーが卸や小売りに直接に販売促進活動ができないきまりだったので、我が社が資金を提供して、特約店の明治屋が主催する形をとったが、映画会は好評だった。
 今と違って酒といえば日本酒だった。特に全国銘柄には人気が集まり、品薄が続いていた。メーカーは特約店(一次卸)への販売量を割り当てざるを得なかった。各地を回ると、「もっと月桂冠を回してくれませんか」。得意先を訪問すると、陳情攻め。お土産までいただくこともあった。
 東京、大阪、名古屋の大市場は社長の父と弘叔父が担当したので、私は東北と北海道のほか、九州や四国、北陸などを行脚した。地方は温泉地が混じっているが、湯治をしていたわけではない。温泉地の旅館は大事なお得意様だ。大きな旅館やホテルの宴会場に月桂冠の緞帳(どんちょう)を進呈し、目抜き通りには提灯(ちょうちん)や雪洞(ぼんぼり)を置いてもらった。
 全国に土地勘があるのは私の強みとなった。各地の「酒販地図」や業界人脈、酒の好みが頭に入ってきた。

4.海外進出
1984年に弟・恒彦を専務営業本部長にして、営業全般の統括を任せた。恒彦は大阪大学工学部通信工学科を卒業して、島津製作所ではセールスエンジニア的な仕事をしていた。ニューヨーク事務所長などを歴任した国際派で、島津から米国のハーバード大学とマサチューセッツ工科大学に留学させてもらっていた。87年に彼をリーダーにプロジェクトチームを立ち上げてカリフォルニア、オレゴン、コロラドの3州で現地調査した。何より大事なのは水である。入念な調査を繰り返した結果、最適と判断したカリフォルニア洲フォルサム市に89年7月、味の素、三楽と共同出資して米国月桂冠を設立した。
 3万6000㎡の敷地に工場とオフィス棟を建て、90年2月にサクラメントバレーの新米を原料に醸造を開始。「米国産清酒月桂冠」が誕生した。その後、生産設備を増強して、米国とカナダほか、南米のブラジル、ドイツ、フランス、オランダを始めヨーロッパにも輸出先が拡がり、社業の新しい柱に育ってくれた。恒彦の力が大きかった。

追悼

氏は’16年8月15日89歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは2010年10月で83歳のときであった。酒造業界からの登場は、アサヒ系5(山本為三郎竹鶴政孝樋口廣太郎瀬戸雄三福地茂雄)、キリン系3(時国益夫佐藤安弘荒蒔康一郎)、サントリー系(佐治敬三)、キッコーマン2(茂木啓三郎茂木友三郎)、薩摩酒造(本坊豊吉)と氏の13名である。

月桂冠の販売量は1973年に70万8千石に達したのがピークで、この年10月の第一次石油ショックで「昭和元禄」と言われた消費ブームが去り、氏が社長に就任した78年には62万石に減っていた。消費者の趣向も酒のラインアップが、ビール、焼酎、ウイスキー、ワインなど格段に豊富となり「日本酒は酒の王様」とは言えなくなった。そこで氏は、吟醸酒をはじめとする高級路線化や生酒、米焼酎など多品種少量生産を行うとともにパック詰の酒を売り出すなど容器改革で業界をリード、海外進出にも成功。

京都の文化を維持・発展に大いに貢献されているのは、茶道裏千家の千玄室宗匠と大倉が双璧であった。氏は京都5花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)が営々と守ってきた伝統芸能や文化の保存、継承、発展を目的にできた京都伝統芸能振興財団(おおきに財団)の理事長(スポンサー)を長く勤めたのは特筆に値する。

大倉 敬一(おおくら けいいち、1927年3月25日 - 2016年8月15日)は、日本実業家月桂冠株式会社代表取締役会長。13代目当主。

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