君原健二 きみはら けんじ

スポーツ

掲載時肩書五輪マラソン銀メダリスト
掲載期間2012/08/01〜2012/08/31
出身地福岡県
生年月日1941/03/20
掲載回数31 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他戸畑中央
入社八幡製鉄
配偶者文通相手
主な仕事競技35回(フル完走:16万km)、ボストン1位、オリンピック3度(東京8位、メキシコ2,ミューヘン5)、ランニング教室
恩師・恩人髙橋進監督
人脈寺沢徹、重松森雄、佐藤寿一、黒木和雄、円谷幸吉、采谷義秋、宇佐美彰朗、佐々木精一郎、横山やすし
備考
論評

福岡県生まれ。高校卒業後、八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社。1960年代から1970年代前半、戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。メキシコ五輪のマラソンで銀メダル。

1.初マラソンで日本最高記録
私が八幡製鉄に入社した1959年の5月に、64年の東京五輪開催が決まった。その頃私は、一度でいいからマラソンを走りたいと思い始めていた。61年2月の熊日30㎞ロードレースが一つのステップになった。ここで私は1時間37分の日本最高記録を出して3位につけた。マラソンはあと12㎞走ればいいのだから、何とかなるだろうという感覚を掴んだ。
 初マラソンへの挑戦は62年12月2日の朝日国際マラソンだった。私は寺沢徹さん(倉敷レイヨン)、中尾隆行さん(東急)に続く3位でゴールした。しかも、2時間18分1秒8というタイムは先輩二人の記録と共に日本最高記録であり、その年の世界4位に当たる。
 当然、この大会は私の人生における大きな転機になった。気の小さな人間なので、それまでは小さな目標しか持てずにいた。しかし、ここで日本最高記録を出したことで、私には大きな目標が見えてきた。「1年10か月後の東京五輪を目指す」と。

2.苦杯
1962年12月、朝日国際(福岡)での初マラソンで3位に入った私は、63年2月の別府毎日マラソンに挑んだ。福岡でさほど苦しむことなく完走できたので、多少マラソンをなめてしまったかもしれない。別府では、ハイペースの寺沢徹さんを追走した。
 若気の至りで、このとき寺沢さんは、あのアベベ・ビキラ(エチオピア)が持つ世界最高記録を更新する2時間15分16秒8で走ったのだ。無理をした私は37キロで振り切られ、フラフラになって4位まで順位を落とした。タイムは福岡を上回ったとはいえ、マラソンの厳しさを思い知らされた。

3.走るペースの配分
マラソンとはいかに速く自分の体を42・195km先にあるゴールまで運ぶかという競技である。体が蓄えているエネルギー源(糖質と脂肪)は決まっている。それをうまく使いながら、できるだけ速くゴールする。
 当然、スタートする前にペースを決める。しかし、理想のペースとは、その日の体調や気象条件によって変わる。だから、走りながらずっと、理想のペースについて考え続けなければならない。
 5kmまで行ったら、このままのペースで進んでも大丈夫だろうかと考える。修正が必要なら、37・195kmをどういうペースで走ればいいのかと計算する。疲労の度合いをチエックし、気温や風向きの変化を感じとることが重要だ。そうしながら、10キロ時点では残り32・195キロの、15キロ地点では残り27・195キロの理想のペースをはじき出し、速度を微調整していく。
そういう意味でマラソンとは人との戦いではなく、自分との戦いなのだと思う。自分を見失わず、自分の理想のペースを守れるかどうかで結果は変わる。

4.マラソンのスピード
「100mを20秒で走ると、1kmが3分20秒、5㎞が16分40秒となる。このスピードを最後まで維持すると、フルマラソンのタイムは2時間20分39秒になる。100mのタイムが1秒遅れると、42・195キロでは約7分余計にかかる。たった1秒の差が積もり積もって大きな差になるのだ。」
私(吉田)がこれを計算すると、100メートル当たり1秒縮めると2時間13分台、2秒縮めると2時間06分台。2008年の北京オリンピックでの優勝記録は2時間6分32秒だから、100mを18秒でフルに走ったことになる。私の高校生時代の100メートル走のタイムは18秒台でした。自分が全力疾走しているのと同じかと、マラソンランナーの速さを改めて認識した。

5.円谷幸吉さんの友情
1968年メキシコオリンピック前に、円谷がメダル獲得期待の重圧に負け自殺したのにショックを受けた。「そこまで自分を追い詰める必要はない」と助言できなかったことを、深く悔いていた。このことがトラウマとなり、以後のレースに影響したが、銀メダルを取ったメキシコ五輪では、最後のゴール前で後ろを振り向き、すぐ後ろにライアンがいるのを知る。そこで私はさらにスパートをかけ、銀メダルを獲得できた。普段はスピードを落としたくないので後ろを振り向かないが、天国から円谷さんがメッセージを送ってくれたとしか思えなかった。

6.横山やすしさんは電話魔
東京五輪のしばらく後、漫才師の横山やすしさんから手紙が届いた。西川きよしさんとのコンビで売出し中のころだった。私は人から手紙をもらったら必ず返事を出す。横山さんの手紙の内容は変わっていた。「別府マラソンに出たいのだが、どういう練習をして、どういう手続きをとったら良いのでしょう」というのだ。どうせなら一流の寺沢徹さんか私からマラソンを習いたいとのことだった。
 その手紙がきっかけで交流ができた。寂しがり屋の横山さんはしょっちゅう電話を掛けてきた。私の家に電話がなかったので、職場に。結局、横山さんがマラソンを走ることはなかったが付き合いは続いた。あるとき「飲みに行こう」誘われた。新大阪駅の地下にある焼き鳥屋で飲んでいるとき、店の親父さんが「ここは新日鉄のバレー部の選手がよく来る」というと、いつものように「バレーの話などすんな」と怒りを爆発させた。

獲得メダル

君原健二, 1964
日本の旗 日本
陸上競技
オリンピック
1968 メキシコシティーマラソン
アジア競技大会
1966年 バンコクマラソン
1970年 バンコクマラソン

君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は、日本の男子陸上競技長距離走マラソン)選手。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。福岡県北九州市出身。

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