向坊隆 むかいぼう たかし

学術

掲載時肩書元東京大学学長
掲載期間1984/10/16〜1984/11/11
出身地中国大連
生年月日1917/03/24
掲載回数26 回
執筆時年齢67 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社大学研究室
配偶者友人の妹
主な仕事弓720本、大学教員、外務省・科学担 当外交官、原子力工学科、安田講堂落城、学長、
恩師・恩人亀山直人教授、茅学長
人脈鹿野義夫、学長:大河内一男(大学紛争)→加藤一郎→林健太郎→向坊
備考父満鉄 大連
論評

1917年3月24日 – 2002年7月4日)は中国大連生まれ。応用化学者。1968年の東大紛争時の工学部長で学内の改革に努め、1977年から東京大学総長。専門は電気化学で、金属の腐蝕、原子炉材料を研究し、日米原子力協力協定のまとめ役となり、原子力委員会委員長代理、日本原子力産業会議会長を務めた。

1.科学アタッシェ(科学担当の外交官)第一号で米国派遣
昭和29年(1954)に科学アタッシェ第一号として米国へ行った。戦後、日本の科学技術振興体制は大幅に改革された。そして22年(1947)8月に内閣総理大臣の諮問機関として学術体制刷新委員会が発足、翌年3月に答申をだした。それには「科学技術行政協議会(現科学技術庁)は日本学術会議と緊密に協力して科学技術行政に反映させる諸方策を審議する」として、この役割に私が選ばれたのだった。
 この理由は、まず学者との交際が多い大学の研究者で、科学技術のいろいろな分野の仕事をしなければならないから工学出身者がいいだろう。工学の中でも関係分野が多い応用化学が適任ということで、年ごろも配慮された上の選定のようだ。

2.アタッシェ活動開始
①最初の仕事は、米政府からNASA(米航空宇宙局)の公式の出版物ひと揃えを、東大の航空研究所に貰う交渉だった。これによりこの出版物は定期的に東大航空研究所に送られてくるようになった。
②次の仕事は南極に関する問題。南極観測事業はIGY(国際地球観測年、昭和32年から33年12月まで、64か国が参加して行われた史上空前の国際的な学術調査)を契機とした、それ自体国際的な一大学術的調査である。私の仕事は、ノルウェー基地とオーストラリア基地の間に日本基地を設けるが、その付近の写真を米国から入手してくれ、だった。早速米国の南極本部に依頼すると二つ返事で承知してくれ、明日取りに来い、という。どうせ数枚の写真だろうと思って行ったところ、1m四方ぐらいの大きさの写真が部屋にどっさり置いてある。重さにして1トンぐらいはあったと思う。
③次が南極にどの専門の医者が必要か、という質問だった。また米国南極本部に相談すると、「南極に細菌はいないから病気はない。ただ盲腸になると、越冬するとノイローゼで頭が変になる者がいるから、そういう治療経験のある医者が欠かせない」という助言をもらった。

3.日米原子力研究協定の締結交渉
科学アタッシェとして、初めて外交官らしい仕事である。昭和30年(1955)1月、米国は日本も含めた友好国に対し、原子力平和利用に関する援助計画を持つ旨、通告してきた。これに伴って、大使館から協定担当を命ぜられた。この交渉の中で一番もめたのは、研究協定に基づき、濃縮ウランを借りるための賃貸借に関する項目の中の「免責条項」である。つまり米国から賃貸された濃縮ウランの引き渡しを受けた後は、その所有、使用から生ずる一切の責任から米国政府は免れるというものだ。
 しかし、何らかの事故によって損害が生じた場合、その損害がいくらになるかもわからないのに、全面的に免責条項を認めるわけにはいかない。とにかく両国とも一歩も引かない。最後は日本が譲歩となった。

4.安田講堂”落城“後の驚き
昭和44年(1969)1月18日、籠城する学生グループとの間で衝突が始まった。両方とも教官側の説得を聞かない。このまま放っておくと、学生同士で血の雨を降らすような状況になるといけないので、ついに大学側は機動隊導入を決意した。19日、安田講堂が落城し学生たちが次つぎと占拠した建物から出てきた。私はすぐ陳列館に入ってみた。警察の放った催涙弾のガスで目を開けられない状態だった。入って驚いたのは、階段がなくなって平らになっていたこと。4階建ての建物だが、運び込んだ大量の石で埋められて、階段がなくなってしまっていたのだ。

向坊 隆(むかいぼう たかし、1917年3月24日 - 2002年7月4日)は、日本の応用化学者。東京大学総長。専門は電気化学で、金属の腐蝕、原子炉材料を研究し、日米原子力協力協定のまとめ役となり、原子力委員会委員長代理、日本原子力産業会議会長を務めた。1992年文化功労者

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