吉田忠裕 よしだただひろ

その他製造

掲載時肩書YKK相談役
掲載期間2023/04/01〜2023/04/30
出身地富山県
生年月日1947/01/05
掲載回数29 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他ノースウェスタン大学(MBA)
入社吉田工業(YKK)
配偶者成城大テニス娘
主な仕事経理部、海外事業部、父「善の巡環」継承、建材事業→YKK-AP 、世界統一仕様書、黒部事業所、窓メーカー、街づくり、
恩師・恩人コトラー教授
人脈内藤晴夫、泉眞也、槇文彦、安藤忠雄、鈴木忠志、小玉裕一郎、森みわ、
備考カーター大統領就任式に夫婦で相伴列席
論評

父親吉田忠雄が1977年8月に70歳でこの履歴書に登場したので、親子二代の登場となります。実業界で親子の登場は、五島慶太五島昇(東急グループ)、井植歳男井植敏(三洋電機)、茂木啓三郎茂木友三郎(キッコーマン)ですから4組目となります。父忠雄の「善の巡環」を継承し、進化させた経営手法でした。

1.善の巡環
父忠雄は鉄鋼王、カーネギーの伝記を少年時代に読んで「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」という考え方に共鳴。50年代の後半には「善の巡環」と呼ぶ経営哲学をつくり上げていた。
 企業は社会の重要な構成員であり、共存してこそ存続できる。企業で得られた付加価値の分配先として顧客、取引先と、経営者や社員を含む自社の3者を挙げた。株式は「事業への参加証」と位置づけ、額に汗して働く社員が持つべきだとしたので、株式の上場は目指さない、だった。

2.カーター大統領就任式に父夫婦が招待され同行
1974年米ジョージア州にファスナー工場を建設したのをきっかけに、同州知事だったジミー・カーター氏と父忠雄の交流が深まった。1976年、カーター氏は共和党のジェラルド・フォード氏を破って、米大統領選に当選した。翌年1月の第39代大統領就任式に忠雄夫婦を招待されたので、私たち夫婦も同行することになった。77年1月20日、米ワシントンでの大統領就任式でカーター氏は「ともに学び、ともに笑い、共に働き、そしてともに祈ろう」と米国民に呼び掛けた。父は「あの演説は『善の巡環』を基にしている」と言った。

3.建材事業に進出
YKKと言えば洋服やバッグに付いているファスナーを思い浮かべる人が多いだろう。だが子会社のYKK AP では住宅の窓やビルの外装など建材事業を手掛けている。私が建材事業に本格的に取り組むようになったのは、1974年に海外事業部の企画室長になってからだ。海外での会社設立や海外事業の企画が主な仕事だった。
 当時はファスナーも建材も吉田工業(現YKK)で手掛けていたが、ファスナーの方は既に23か国・地域に進出していたうえ、外資規制などのため新規に設立できる国が限られてきていた。そこで建材事業の海外展開に目を付けた。その理由は、一つは国際展開ができる、もう一つは1000億円規模への成長が期待できることだ。ではこの2つの条件を満たす国はどこがいいか?いきなり現地生産は出来ないので、当面は日本から建材を輸出することになる。そうなると米国や欧州では遠すぎる。日本から近いアジアで、法律がしっかりしており、高層ビルが建ち始めていたシンガポールが最適な市場だという判断になった。

4.建材事業→別会社化(YKK AP)
1988年に欠品問題が起きたYKKの建材事業は問題山積で、販売店離れも進んでいた。副社長になっていた私は、9月の経営会議で「建材事業を立て直すには当社を建材の会社に変えるか、別会社をつくるか。二つに一つしかない」と二者択一を迫った。父は「ファスナー事業をないがしろにするのか」で反対だったが、別会社をつくる案が選ばれた。
 90年にグループ企業の吉田商事を母体とした新会社、YKKアーキテクチュラルプロダクツ(現YKK AP)が発足する。従来は吉田工業が生産、吉田商事が販売を担っていたが、これ以降はYKKがファスナー、YKK APが建材と事業別の体制に移っていく。YKK APの社長には別会社化を提言した私が就任した。吉田工業の副社長と兼務だったが、7割以上の力を建材事業の改革に振り向けた。増やし過ぎた販売会社は統合を進め、父が社員に経営を経験させようと96社まで増やした販売会社は、90年に1県1社体制に集約。さらに2001年には、ほぼ全ての販売会社をYKK APが吸収合併した。

5.窓戦略(サッシとガラスの一体供給)
2004年ごろ、業界団体の日本サッシ協会の会合で私はYKK APの社長として、「これから当社はサッシ屋ではなく、窓をつくる窓メーカーとしてやっていきます」と発言。すると業界関係者の反発や怒りを買うことになった。業界の慣行に変革を迫ったからだ。
 日本の住宅業界ではサッシメーカーが窓枠となるサッシを、ガラスメーカーが窓ガラスをつくる。建材流通店がこれらを組み合わせて窓を完成させ、工務店やハウスメーカーに納めていた。当社はガラスの原板を調達して自社工場で窓を完成させることにした。流通店は「窓を組み立てる我々の仕事を奪うのか」と色めき立った。しかし窓を饅頭に例えると、サッシは皮にすぎない。ガラスという餡子と組み合わせて初めて美味しい饅頭ができる。こう考えると、窓メーカーになることが非常に重要に思えたのだった。
 建築物の重要な部品は住宅なら窓、ビルならファサード(外装)になる。窓は施行も含めて性能・デザインなどで建築家や施主の要求に応えなくてはならない。YKK APは05年、「APW」というブランド名で窓商品の第一弾を発表した。
 窓メーカーとしての認知度を高めようと、05年、東京・品川に窓のショールームも設けた。また窓のリフォームを強化するため、10年に新店舗ブランド「MADOショップ」の展開も開始。建材流通店などが参加し、店舗数は約1000店に達している。全社的な取り組みが実り、現在の住宅事業ではサッシと窓の割合が6対4になった。よくここまで来た。

6.街づくりや演劇五輪の手伝い
YKKグループの最も大きな生産拠点は富山県黒部市にある。研究開発の中心でもある。若者が東京に出ても、戻りたくなる魅力ある街づくりを考えた。そこで1992年YKKの副社長だった私は、街づくりをやらせてもらう条件で黒部商工会議所の会頭に就任した。黒部まちづくり協議会を発足させ、ワークショップに有識者も招いて「この街に足りないものは何か」を議論した。黒部を「水ギョーザの街」としてアピールもした。
 大きな転機をもたらしたのが11年3月に起きた東日本大震災だった。原子力発電所が停止し、エネルギー問題の重要性を我々に突き付けた。黒部市内にあるYKKグループの工場や社員の住宅で使われる電力の消費量は、同市全体の約5割に及ぶ。そこで取り組んだのが、3万6000㎡の敷地に約200戸の賃貸集合住宅などを建設する「パッシブタウン」づくりだった。
 「タウン」だから住宅だけではない。第4街区をYKKグループの事業所内保育施設の「タンポポ保育園」にしたほか、カフェやレストランも設けた。現在、約190人の人が住んでおり、YKKグループの社員や家族ではない一般入居者が約15%を占める。
 街の魅力を高めるには仕事や住宅だけでなく、文化的な刺激も必要だろう。富山県には演劇がある。19年、世界的な舞台芸術の祭典である「シアター・オリンピックス」が日本とロシアで共同開催された。日本の会場は富山県の黒部市と利賀村(現南砺市)で米国、インド、ロシア、フランス、中国など15か国から27の劇団が来日して公演した。来場者数は8月23日からの1か月で延べ約2万人に達した。
 シアター・オリンピックスは世界各国で活躍する演出家や劇作家により1994年に創設された。その一人が演出家で劇団SCOTを主宰する鈴木忠志氏である。19年の利賀村開催を提案したのは鈴木氏で、私は実行委員会の会長を務めた。

吉田 忠裕(よしだ ただひろ、1947年1月5日 - )は、日本の経営者YKK元社長・元会長。富山県魚津市出身[1]。創業者吉田忠雄の長男[1]

  1. ^ a b 人事興信所 2009, よ53頁.
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