吉田庄一郎 よしだ しょういちろう

精密

掲載時肩書ニコン相談役
掲載期間2007/06/01〜2007/06/30
出身地東京都
生年月日1932/08/25
掲載回数29 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他教育付属
入社日本光学
配偶者家庭教師先息子の姉(聖心女子)
主な仕事岩崎小弥太(ニコン)、超精密機国産化、ステッパー、営業部長、ナノプロ・リーダー、デジタルカメラ、眼鏡事業分離、特許訴訟
恩師・恩人鏡山望男、大越諄教授、福岡成忠社長
人脈藤井裕久(幼ー大)、野田聖子、吉川弘之、西澤潤一、垂井康夫、裕次郎ロケ(妻宅)
備考父:東洋時計設立、座右の銘「一隅を照らす」
論評

1932年8月25日 – )は東京生まれ。日本の光学設計者、実業家。元ニコン社長・会長。ニコンでは日本企業として初めてステッパーの製品化を実現したことで知られる。ニコンの参入以前、ステッパーの市場は事実上アメリカのGCA社が寡占している状態だった(文献によればシェアが90%以上に達していたとも伝えられる)。しかし日本でも、1976年に超LSI技術研究組合が設立され本格的な超LSIの開発に向けた研究が進められていく中で、半導体製造装置についても国産化が強く求められていた。当時ニコンで精機事業部精機設計部と精機営業部双方のゼネラルマネージャー(一般企業での課長級職とのこと)を兼務していた吉田はその開発責任者となり、1980年に初めて国産ステッパー1号機「NSR-1010G」を製品化。1980年代に急速にGCAを駆逐してシェアを拡大し、一時ステッパー業界で世界シェアNo.1までに至った。

1.新入社員にいきなり図面描け
私が社会人になったのは1956年4月。そして、その3か月後に発表された昭和31年版「経済白書」には「もはや戦後ではない」との記述がなされた。私が最初に配属されたのは、大学や研究所などから受注する特注品の設計部門だった。まず参画したプロジェクトは、東大東京天文台(現国立天文台)が進めていた36インチ(約91センチ)の反射型天体望遠鏡の開発。当時の関係者は「東洋一の望遠鏡」と強調した。
 新人の私はいきなり「図面を描け」と言われて困惑した。天体観測機器は非常に微弱な光を対象とし、高精度の位置計測や制御の技術を求められる。救われたのは、この分野は戦時中の空白が響いて国内を見渡しても技術者が育っておらず、経験がないのは私だけではなかったことだ。
 米カリフォルニア州にあるパロマ天文台にはこの当時、既に200インチ(約508センチ)の望遠鏡が据え付けられており、彼我の技術力の差は大きかった。私は欧米の専門誌の他、製品のカタログ・説明書をかき集め、文字通り眼光紙背に徹する思いでそれらの文献や写真を克明に調べ、構造を研究した。日本光学は36インチ望遠鏡を2機受注。1号機は岡山天体物理観測所に納めることになり、私は入社早々4年がかりの大仕事に取り組むことになった。

2.ル―リング・エンジン(超精密刻線機)の開発
1961年当時、東京教育大(現筑波大)光学研究所は新宿区百人町にあった。日本光学はここに納める「ル―リング・エンジン」の製造を受注、私は開発メンバーに指名された。ル―リング・エンジンは光を赤外線から紫外線まできめ細かく分ける分光器の回折格子を製作する装置である。ダイヤモンドカッターを使い、10センチ四方のガラス表面に1ミリ当たり1000-1500本の溝を平行に刻んでいく。従って刻線の間隔は1マイメークロトル(1マイメークロトルは千分の1ミリ)以下でそれぞれの線が真直ぐに、しかも等間隔、平行に刻まれていなくてはならない。
 このころはまだ位置の計測に使うレーザー干渉計も実用化されておらず、水銀ランプの光源を用いて機械の制御をした。理化学研究所などが戦前から、このル―リング・エンジンの開発に取り組んできたが、実用化に至らず、一部では「幻のマシン」とも呼ばれていた。精密工学の粋を集めたこの装置は、まさに私が国産化を夢見ていた「マザーマシン」だった。「欧米製のマザーマシンを使って、いくら優秀な製品を作っても一流の技術国とは言えない」。こんな思いを当時の白濱浩社長にぶつけて渋々開発を認めてもらった。
 当時35~36歳の我々は血気盛んで怖いもの知らずだった。会社は私と靍田君の提案を受け入れてル―リング・エンジンの本体をムアー社に製作委託することを決定。私たちは世界最先端の装置を隅々まで調べ上げ、マザーマシンを自前で製作できる技術力を蓄えていった。こうした60年代の10年間の体験が後の半導体露光装置(ステッパー)の開発で実を結ぶのである。

3.ステッパー(半導体露光装置)の開発
集積回路(IC)が世の中に登場したのは1958年。以後3-4年で4倍のスピードで集積度が拡大し、ICの製造方法も変わっていく。従来は回路図を描き込んだマスク(原板)をウェハー(基板)に密着させ、直接焼き付ける方式が主流だったが、微細化が進むと原板の回路図をレンズを通じて十分の一あるいは五分の一へと縮小投影して基板上に転写しようというアイデアが浮上してきた。実際の作業では原板を固定し、基板をステップ状に前後左右移動させて焼き付けていくため、この装置を「ステッパー」と呼ぶようになった。
 76年3月、垂井康夫さんが所長を務める超LSI技術組合が通産省(現経産省)の主導で発足。半導体産業の飛躍という国策を担い、超LSI(大規模集積回路)製造装置の開発に着手した。光を露光光源とするステッパーのほか電子ビームを照射する直接描画方式やX線露光装置を使う方式でも試作機開発が進んでおり、当初ステッパーは「第3の候補」だった。
 ステッパーが滑り止め扱いだったのも無理はなかった。いかに日本の光学機械メーカーの技術が優れていても、1本の髪の毛の断面に40本の線を焼き付けるようなレンズが出来るとは考えなかったのだろう。そんなハイレベルの微細加工は電子ビームかX線によるほかないというのが当時の常識だったと思う。
 だが、垂井さんがステッパー開発で日本光学を指名してくれた時、私には勝算があった。中核となる技術は3つ。1つはステッパーの心臓部の「高解像力投影レンズ」、2つ目は基板を乗せた移動台(ステージ)を高速かつ高精度で動かす「超精密機械」、3つ目は自動制御機構を支える「光電センサー」だ。この3つの基盤技術を当時の日本光学は全て備えていた。
 ステージ製作で課題となったのは「真っすぐに動く機構を作る」こと。「東京から富士山に向かって真っすぐに矢を放ち、山頂にあるテニスボールに命中させる精度」というのがステッパー開発時に我々が求めた水準だった。
 ステッパーの試作1号機は1978年に完成した。発注元の超LSI技術研究組合は2か月後、キヤノンが試作した「等倍型」露光装置すなわちステッパーの開発を同時発表した。しかし我々の試作機に対する超LSI研の評価は上々だった。これにより先に米大手精密機械メーカーのGCA社が縮小投影型露光装置を製品化しており、ステッパーが次世代半導体製造装置の主役として一躍脚光を浴びるようになった。

4.デジタルカメラに進出
1988年4月1日、日本光学工業は社名を「ニコン」に変えた。93年に副社長になった私はカメラ部門の技術変革に一刻の猶予もないことを痛感した。76年にキヤが自動露出機能搭載の一眼レフカメラ「AE-1」を発売。日本光学は電子化戦略に後れを取り、ようやく自動露出の新型機「FE」を市場に出したのは2年後だった。強さゆえの油断・・・。トップメーカーのプライドが「柔軟な対応」を妨げたのかもしれないと反省。
 まずコンパクトカメラを出し、その後速やかに一眼レフのデジタルカメラを製品化するという「2段ロケット方式」を採用した。プロジェクト始動から1年余り。98年4月にコンパクト型デジタルカメラ「クールピクス900」を売り出した。CCDはソニー製、組立は三洋電機への委託生産だったが、設定期限より大幅に早くニコンのデジタルカメラを世に広めることができた。
 翌99年9月にはデジタル一眼レフ「D1」を発売。D1は当時のライバル機の三分の一の価格(65万円)を実現した画期的な新製品だった。技術蓄積も進み、搭載したCCDはソニーとニコンの共同開発で生み出した。

吉田 庄一郎(よしだ しょういちろう、1932年8月25日 - )は日本の光学設計者、実業家。元ニコン社長・会長。東京府出身。

ニコンでは日本企業として初めてステッパーの製品化を実現したことで知られる。

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