吉岡隆徳 よしおか たかよし

スポーツ

掲載時肩書東京女子体育大教授
掲載期間1978/11/14〜1978/12/07
出身地島根県
生年月日1909/06/20
掲載回数24 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
筑波大学
学歴その他島根 師範
入社中学教師
配偶者質屋娘
主な仕事学習院、広島高師、競技人生、ロス五輪、世界タイ10.3、ベル五輪、広島師範教授、原爆、実業団監督
恩師・恩人藤井先生、佐々木吉蔵
人脈谷三三五、南部忠平、織田幹雄、永井道雄(指導)・人見絹枝(3年上)、依田郁子・飯島秀雄(指導)、平木信二
備考代々宮司
論評

1909年(明治42年)6月2日 – 1984年(昭和59年)5月5日)は島根県生まれ。昭和初期で活躍した日本の陸上短距離選手。東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業、元東京女子体育大学教授。1932年8月、吉岡は第10回ロサンゼルス五輪で、100メートル競走に出場、東洋人初の6位入賞を果たした。このロサンゼルス五輪の100メートル走で金メダルをとり、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーランにちなんでスポーツライターの川本信正(当時読売新聞記者)がつけた暁の超特急という呼び名は有名である。吉岡の走りで特に優れていた部分はスタートダッシュで、当時の世界トップレベルを誇った。その訓練のために、吉岡は日常生活においても「何かが切り替わった瞬間にスッと行動する」というのを習慣づけていたほどだという。オリンピック翌年の1933年9月に自己記録を0秒1更新する10秒4を記録している。

1.人見絹枝さん
昭和6年(1931)は南部忠平さんが走り幅跳びに7m98、織田幹雄さんが三段跳びに15m58の世界記録を出した記念すべき年である。しかし、日本陸上界にとっても痛恨の出来事があった。不世出の名女性選手人見絹枝さんの死がそれである。人見さんとのつき合いは、私が島根師範3年、18歳の時に始まっている。日本女子短距離界のスターだった双子姉妹、寺尾ふみ子、まさ子選手を破って日本一の座についたあと、大正15年(1926)の世界女子オリンピック(スエーデン・ヨテボリ)に単身参加、走り幅跳びで日本女性として初めて国際大会に優勝した。そして翌昭和2年には400mに57秒0の世界新記録を樹立している。まさに日の出の勢いだった。
 私のことは「吉岡、吉岡」と呼び捨てにする。現代ならこのような女性はさして珍しくない。しかし私には「女性とはしとやかなもの」という固定したイメージがあっただけに、いわゆる大和なでしことかけ離れた姿に、大げさに言えば仰天したものである。しかし人柄は魅力的だった。実にさっぱりしていて、弁舌にたけている。男が男に惚れる、という言葉があるが、私は3つ上のこの女性に、全くそのような感情を抱き、いつも「お姉さん」と呼んで慕っていた。しかし病気のため、24歳で生涯を終えてしまったのは残念至極だった。

2.暁の超特急・・独特の「八の字スタート」
私のスタートの形は独特である。低く低く出るために足を八の字型にして、まず三歩飛び出す。つまり、つま先が内側を向いた形で右、左、右と出る。スピードスケートのスタートの形を思えばいい。従って体も稲妻型に振られるが、体勢が低いため加速がつきやすい。これを「八の字型三歩説」といい、私が何年もかかって編み出したスタートの極意である。
 八の字型スタートは確かにスピードが出る反面、たいへんな脚筋力を必要とするので、マスターしにくいのだ。ちなみに現在の日本陸上界で私のスタート技術を受け継いでいる選手は、一人もいない。トラックも反発力の強いゴム質の全天候型に変わりつつあり、さらに強い筋肉がなければ“八の字型”を身につけるのは困難だろう。私の考案した技術が途絶えるのは残念なことである。

3.依田郁子
男女を問わず、最も根性のある陸上選手を選べと言われたら、私はためらいなく依田郁子をあげたい。これまで数えきれないほど内外の陸上選手に接してきたが、依田ほど弱音を吐かず、負けず嫌いの選手を見たことがない。彼女の根性を知ったのは入社して間もなくである。私は、夏季は5時半から冬季は6時からの早朝練習を提唱していたが、リッカー部員で完全に付いてきた選手は、依田だけだった。
 依田は、どんなきつい練習を命じても泣き言一つ言わずにやり遂げ、実力を伸ばしていったが、その負けず嫌いが裏目に出たこともあった。ローマ五輪の代表を逸した後の自殺さわぎがそれである。辛い試練の克服後は、4年後の東京五輪を目指して前にもまして激しい練習をするようになった。私の指導も一段と熱が加わった。指導は完全なマンツーマン体制で寝るとき以外は全て行動を共にしていたほどだ。

吉岡 隆徳Portal:陸上競技
選手情報
ラテン文字 Takayoshi Yoshioka
愛称 暁の超特急
国籍 日本の旗 日本
競技 トラック競技(短距離走
種目 100m
生年月日 (1909-06-02) 1909年6月2日
没年月日 (1984-05-05) 1984年5月5日(74歳没)
身長 165cm
体重 61kg
自己ベスト
100m 10秒3(1935年)
200m 21秒2(1933年)
獲得メダル
陸上競技
日本の旗 日本
極東選手権競技大会
1930 東京100m
1930 東京200m
1934 マニラ200m
1927 上海英語版200m
1927 上海英語版100m
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吉岡 隆徳(よしおか たかよし(または「たかのり」[注釈 1])、1909年明治42年)6月2日[3] - 1984年昭和59年)5月5日[3])は、昭和初期に活躍した日本の陸上短距離選手東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業、元東京女子体育大学教授。名前は「たかよし(たかのり)」のほか、通称で「りゅうとく」とも呼ばれた[2]。身長165cm、体重61kg[3]

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  2. ^ a b Takayoshi Yoshioka - Olympedia(英語)
  3. ^ a b c “Takayoshi Yoshioka Bio, Stats, and Results”. Olympics at Sports-Reference.com. https://web.archive.org/web/20200417210706/https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/yo/takayoshi-yoshioka-1.html 2020年9月24日閲覧。 


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