北条秀司 ほうじょう ひでじ

文芸

掲載時肩書劇作家
掲載期間1978/07/29〜1978/08/23
出身地大阪府
生年月日1902/11/07
掲載回数26 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
関西大学
学歴その他大阪高商(現天王寺商業高)
入社日本電力 (関電)
配偶者大阪隣家娘
主な仕事芝居好き、宝塚脚本、「関西文学」、第一小劇場、箱根振興、一本立ち、「王将」
恩師・恩人岡本綺堂
人脈久松一声、天津乙女、井上正夫、島田正吾、辰巳柳太郎、大川博、西城八十、中山晋平
備考天井桟敷礼さん
論評

1902年(明治35年)11月7日 – 1996年(平成8年)5月19日)は大阪生まれ。劇作家、演出家、著述家。1937年、『舞台』に発表した戯曲『表彰式前後』が新国劇で上演されて劇壇デビューし、会社員兼業の劇作家となる。1939年の岡本綺堂の死去を機会に退社して、劇作家専業となり上京。1940年、長谷川伸に師事して、長谷川主催の脚本研究会「二十六日会」に参加。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。1944年から、日本文学報国会の総務部長をつとめる。同年、南京で行われた第三回大東亜文学者大会に、日本側の責任者として同行参加。戦後は、自作の多くの作品で演出も担当。1947年、新国劇で演出も担当した辰巳柳太郎主演の『王将』が大ヒットし、2作の続編を執筆して1950年に初演。また、たびたび映画化された。

1.劇作家の下地
私は劇作家としての栄養を生まれた町の特殊な風土から多分に受けているようである。私の住む西長堀の材木河岸は堀江の茶屋町と背中合わせになっていた。だから同窓会などに卒業生の芸者や舞妓が余興の踊りにきた。私は路地内のペットだったらしく、女達から上方唄を教えられた。三味線も習わされた。イヤイヤ習ったのだけど、後年新派や歌舞伎へ新作を書くとき、たいへんそれが役に立っている。
 父は成駒屋鴈治郎の新町会に関係していたので、道頓堀の大芝居へも母と私を連れて行った。あの頃は浪花節が上方歌舞伎の根城で、鴈治郎、梅玉、延若、魁車らが活躍した黄金時代だった。町内の芝居にも義理で良く連れていかれた。一時は人形浄瑠璃の常打ち時代もあった。もう一つ、校外教授場があった。花街の中の賑江亭という寄席である。ここは寄席のほか、手品や娘手踊りなどがあって楽しかった。これらいろんなゴモク学問の中に私は生長して行った。

2.宝塚少女歌劇の脚本が18歳で当選
1919年、大阪商業高(現天王寺商業高)のころ、大阪の学生はひとしく思慕した少女歌劇に血道を上げた。それは実業家小林一三氏が郊外電車の乗客誘致策として企画したものだが、燎原の火の如く京阪神を席巻した。この歌劇団で上演脚本を一般に募集することが発表されたので、生まれて初めて脚本というものを書いてみたくなり、投稿して見たら、思いがけなく当選し、上演されることになった。
 学校中がワッとどよめいた。他の学校が畜生めと悔しがった。対抗野球の名投手のような人気を私は浴びた。学校だけじゃなく、全市の女性たちにも私は讃仰された。母は気違いのように興奮し、親類知己の女たちも歓声を上げて、私を見る目を改めた。これは誇張ではなく、市会議員に当選するより難しいのだ。

3.精神病者に間違われる
昭和13年(1938)3月の明治座に「屋根裏の弁護士」というのを書いた。井上正夫の主演で水谷八重子と岡田嘉子が顔を合わせることになっていたが、嘉子さんが杉本良吉氏とソ連越境事件を起こしたため、市川紅梅と森赫子に役が変わった。紅梅の役は精神病のマダムなので、脳病院へ見学に出かけたところ、帰りに門衛につかまって、「無断外出はいかん」と怒鳴られた。入院患者と間違われたのである。紅梅も黙っていず、「私は見学者よ」と言い返したが、門衛は承知せず、
 「伊達に門衛をやってるんじゃない。患者でないかどうか一目でわかるんだ」と、押し返したという話は、紅梅が今の翠扇だけに面白かった。

4.天井桟敷の良さ
私は歌舞伎座で天井桟敷から見続けた。いま思うと私は天井桟敷時代に芝居というものの骨法を学んだようである。天井桟敷からは芝居を戯曲として冷視することができる。一等席では主要役者に眼が惹かれて、全体としての舞台が看過されがちである。だから今でも、天井桟敷に昔を懐かしみに登ってゆく。

北條 秀司

北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条1902年明治35年)11月7日 - 1996年平成8年)5月19日)は、劇作家演出家著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。

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