加藤辧三郎 かとう べんざぶろう

化学

掲載時肩書協和発酵工業会長
掲載期間1969/12/04〜1969/12/31
出身地島根県出雲
生年月日1899/08/10
掲載回数28 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他三高
入社四方合名
配偶者四方社長 姪
主な仕事宝酒造㈱、帝国酒造出向、協和会、協和化学研究所、協和発酵、在家仏教、大協和石油化学
恩師・恩人四方夘三郎、金子大栄師、野口喜一郎
人脈大宮庫吉、森長英、山本為三郎、石坂泰三、松隈秀雄、鈴木大拙
備考家業:酒、しょう油、「歎異抄」親鸞聖人、西田天香、
論評

明治32年(1899年)8月10日 – 昭和58年(1983年)8月15日)は島根県生まれ。実業家。四方合名会社(現・宝ホールディングス)に入社。1949年協和醱酵工業株式会社が発足。代表取締役社長に就任。1968年協和醱酵工業(現・協和キリン)会長。1952年在家仏教協会を設立。1961年東レ科学技術賞受賞。

1.入社の面接試験
私が京都大学を終わろうとする大正12年(1923)1月、松本先生に呼ばれた。酵素の勉強をしたくてしょうがなかった私に、先生は「伏見の四方合名会社(のち宝酒造)に、君行かないかね。先方では、君を大学院に入れてやってもよいと言っている。とにかく社長に会って見ては・・」と言われた。
 2月11日紀元節、この日初めて社長四方夘三郎氏に会った。私はまず、いんぎんなご挨拶に面食らった。まるで遠来の客に接する態度である。話を聞いているうちに、私は早くも惹きつけられていった。条件も良かった。月給もよいが、それよりも研究をしてもらいたいとのお言葉が非常にうれしかった。研究の問題も、その日告げられた。味りんに関するものである。詳しい説明であったので、研究の方針がすぐ立てられると思った。また会社にはまだ研究室がないから、大学院へ行ってもらいたいとのことであった。その上、研究が終わったら、どこへ転職しても苦情は言わないとまで付け加えられた。これをお受けしなければ罰が当たるというものだ。私は、その場でお受けした。きょうこの頃の入社試験とはまるであべこべである。

2.協和会の発足が協和発酵工業への礎に
昭和12年(1937)11月1日、宝酒造から協和会という会へ転出を命ぜられた。これが私の人生に大きな転機を与えてくれる縁となった。協和会は、同業である宝酒造、大日本酒類醸造、合同酒精の3社が、協力して経営の合理化を図るとともに、業界安定の中心勢力となるためにつくった会である。
 名は会であるが、実際には共同経営機構といって差し支えなかった。この会の会長は宝酒造社長の四方夘三郎氏、副会長は大日本酒類醸造社長森長英氏ならびに合同酒精社長野口喜一郎氏であった。事業内容は、原料、容器の共同購入、製品の融通出荷、三社間の技術公開と品質の統一等である。ここまでくれば、この三社は事実上合併されたいってよいくらいであった。しかも、三社の独立は犯されていない。まことにうまい組織であった。協和会での私の任務は三社の工場技術を比較検討すること、合わせて新しい開発研究をおこなうことにあった。
 当時合同酒精において、発酵法によってブタノール、アセトンを製造する計画が進められていたが、これらは殆ど輸入に頼っていた。それを国策に沿った国産化にするために研究所を建てることになった。そこで昭和14年の夏、渋谷区代々木大山町に用地1400坪を購入し、直ちに木造の研究室を着工した。翌15年2月11日、皇紀二千六百年の紀元節に私たちは新研究所に引っ越した。そのうれしさは最高であった。ここに私たちの研究所が生まれ、そしてこれが協和発酵工業の濫觴(らんしょう)となったのである。

3.グルタミン酸製造法の画期的な発明
昭和31年9月21日、協和発酵は発酵法でグルタミン酸を製造する旨新聞に公表した。これは、グルタミンさん製造法の画期的名発明であるばかりでなく、発酵工業に新しい分野を開く序幕となったものである。グルタミン酸はアミノ酸の一種で「味の素」の主成分である。味の素社は創業以来、これを小麦または大豆のたんぱく質を塩酸で分解してつくっていた。そこへ協和発酵が、それとはまったく異なる方法を発明したのである。でん粉または糖蜜とアンモニアとを原料として発酵法でつくるわけだ。分解でなく合成である。原料も安く工程も簡単だ。これによってグルタミン酸の原価は大幅に下がることが予想された。
 そのため、故山本為三郎氏から味の素社と協和発酵が提携するよう提案があり、それを受け入れた。内容は、発酵法によるものは協和発酵が製造し、できたグルタミン酸は全量味の素社の原料として同社に納入するという構想である。友好的で穏当な契約であったと私は信じる。

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