佐藤安弘 さとう やすひろ

食品

掲載時肩書キリンビール相談役
掲載期間2005/09/01〜2005/09/30
出身地東京都
生年月日1936/02/07
掲載回数29 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他
入社キリンビール
配偶者コカ社内 結婚
主な仕事経理部、近畿コカ、不動産事業、シエア=63.8%(76年)>44.8%(96年)、総会屋、ライオンネイサン(ニュージ)、サンミゲル(比)出資
恩師・恩人佐藤保三郎、真鍋圭作
人脈下垣内洋一(高)、岸人宏亘、小西秀次、大前研一、鈴木敏文、岡田元也、前田仁(一番絞り)、川淵三郎、葛西敬之、荒蒔康一郎
備考俳句趣味
論評

1936年2月7日 – 2020年1月24日)は東京都生まれ。日本の実業家。キリンビール(麒麟麦酒)株式会社元社長。営業畑の出身ではなく、ビール業界トップとしては異色の経歴をもつ。発泡酒の投入などで同社の市場シェアの低迷を食い止めた。人事面では、知識や技能よりも人柄や人格を重視した。

1.「私の履歴書」の冒頭
1997年(平成9)9月3日午前9時過ぎ。東京都北区のキリンビール東京工場で製造ラインが止まった。工場の全社員が、社長である私の話を聞くためだった。
「つらい提案をお願いに参りました。全社が残るために、この工場での製造を来年で終了します。転勤がないという前提で入した皆さんには申し訳なく思います」。最前列の女性は泣き出した。心が揺れる。自分に言い聞かせた。ここで私が決断しなければ誰がやるんだ。後々、必ず分かってもらえる。とは言え、目の前にいる社員が今の職場を失うこともまぎれもない現実だった。
東京工場だけでは済まなかった。午後4時からの記者会見で、当時の国内15工場のうち、東京、京都、広島の3工場を閉鎖すると発表した。当時のキリンは土俵際に追いつめられていた。業界全体でビール類の需要が頭打ちになり、当社のシエアも絶頂期だった76年の63.8%から、96年には44.8%まで低下した。アサヒビールに比べ、工場の生産性は明らかに見劣りしていた。

2.発泡酒「淡麗」がトップに
1996年3月に真鍋圭作社長の後任として社長を継いだ。1997年9月には、「一番搾り」をヒットさせた功労者の一人である前田仁君(現執行役員)を出向先のキリン・シーグラムから呼び戻し、商品開発部長にした。発泡酒参入に備え、マーケティングを強化するためである。この発泡酒「淡麗」は98年2月の発売当初から人気を呼んだ。年間シエアは52.8%に達し、先行していたサントリー、サッポロビールを一気に追い越して首位に立った。消費者が「値段の割にうまいじゃないか」と支持してくれたのだろう。
 だが98年は手放しで喜ぶわけにはいかなかった。ビール部門の年間シエアが前年比4.2ポイント減の38.4%まで下がり、45年ぶりに首位の座を明け渡したからである。前々年の76年にはラガーだけで63.8%に達していた。あまりにも強く、企業分割の議論も飛び起こすほどだった。シエアの上昇を避けようとして、営業の足腰が弱くなったという側面もあるだろう。成功体験が長引けば、様々な衰退の要因が内部に蓄積していく。どんな組織やブランドにも永遠の成功はない。

3.総合化戦略
消費者が様々なアルコールを飲み分けるようになったのに対応して、当社も総合酒類戦略を打ち出した。なかでも缶チューハイ「氷結」がヒットし、同市場で一位になったのは大きかった。発端は、キリンひいきの大阪の料飲店からの要請だった。「ビールと同じように、タルからお客に出すチューハイがほしい」という。これに応えて業務用の商品から始めた。缶チューハイは宝酒造が先駆けで、サントリーも後を追っていた。発泡酒と同様、当社は後発である。いかにおいしい商品をつくるかが課題だった。
 2001年(平成13)7月に発売した氷結の特徴はウオッカをベースにし、果汁を加熱せず凍結して使ったことだ。ウオッカを提供するキリン・シーグラム、果汁のキリンビバレッジと密に連携し、グループの総合力を発揮できたと感じている。
 洋酒の強化にも取り組んだ。ウィスキー事業はカナダ・シーグラム社との合弁会社であるキリン・シーグラムで展開していたが、販売効率を高めるため、営業部門をキリンに統合する必要があった。そのために2000年6月、米ニューヨークに向かった。

追悼

氏は20年1月24日、83歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は05年9月で69歳の時でした。
 この連載とき、私(吉田)が印象深く読んだ箇所は2つありました。

不祥事:氏が株主総会運営を含む総務担当役員になった時、商法違反事件(総会屋に利益供与)があり、被告となった4人の社員と元社員が裁判にかけられた。3回目の公判で担当役員として氏も証言台に立つことになった。
「開廷前、やはり証言のために訪れた4人の奥さんと控室で一緒になる。口々に『家に無言電話が多くて、怖くて布団をかぶせているの』『ウチもそうだわ』と話すのを聞き、二度とこういう事件を起こしてはならないと痛感した。裁判長に『家庭ではどんなご主人ですか』と質問された奥さんたちは皆、答えながら泣き崩れた。最後に被告の社員が一人ずつ現れる。そして、社員らが『自分の一存でやった。浅はかだった』と述べるのを聞き、傍聴席に残っていた私の目にも涙が込み上げてきた。経営陣の責任の重さを感じた」とある。 日本経済新聞 2005.9.21
 私(吉田)もこの当時、総務部に所属し株主総会も担当していたので総会屋への利益供与事件で被告となった他社の友人が沢山いました。同じような境遇でもあったため、深い同情と涙なくして読めない記事でした。

悔し涙:氏は1996年に社長に就任したが、ビールの販売苦戦は続いていた。総会事件、雑菌混入事故による企業イメージの低下が続いた。そして1970年代にビールシェアが6割を超えていたキリンだったが、アサヒのスパードライに抜かれ4割近くにまで低迷した。そんなとき、
「商品開発担当の女性社員が一人で社長室にやってきた。彼女は『アサヒに負けて本当に悔しいなら、ここで泣いてください』と私に訴え、自ら泣き出してしまった。営業の応援に行く彼女を見送りながら、この会社にはまだ救いがあると思った。」 日本経済新聞 2005.9.23

佐藤 安弘 (さとう やすひろ、1936年2月7日 - 2020年1月24日)は、日本の実業家。東京都出身。キリンビール(麒麟麦酒)株式会社元社長[1]

  1. ^ キリンビールホームページ、リーダーたちの名言集、企業家人物辞典、早稲田大学校友会
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