リッカルド・ムーティ りっかるど・むーてぃ

芸術

掲載時肩書指揮者
掲載期間2022/12/01〜2022/12/31
出身地イタリア・ナポリ
生年月日1941/07/28
掲載回数30 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
ナポリ・ウェルディ音楽院
学歴その他バーリ音楽院
入社五月音楽祭歌劇場(フィレンツエ)
配偶者クリスティーナ(声楽)
主な仕事指揮者欧州コンクール優勝、フィレンツェ、ロンドン、フィデラルフィア、ウィーン、スカラ座
恩師・恩人ニーノ・ロータ、アントニーノ・ヴォット
人脈正井姈、佐々木忠次、ヴィターレ先生、ナポリ学長、リヒテル、ロータ、カラヤン、鈴木幸一
備考若い音楽家の養成(ケルビー二管弦楽団)
論評

これまで「私の履歴書」に登場した外国人は36名いるが、彼は37番目となり音楽家(指揮者)は初めてである。日本の指揮者では、朝比奈隆小澤征爾岩城宏之の3人が登場している。ムーティは「履歴書」で日本を褒めすぎ少し違和感を感じた。音楽に無知な私ですが、興味深かった記述箇所を列挙します。

1.作曲家・ニーノ・ロータ(恩師)
私の才能を見出してくれた作曲家・ニーノ・ロータは、映画音楽で世界的に有名だが、さらにクラシック音楽の大家として評価されるべき人だ。交響曲はもちろんピアノやトロンボーンの協奏曲、弦楽のための協奏曲、オペラなど、本当に聴くべき曲を作った。彼は生まれつき持つ芸術性を大切にしながら、現代に通じる有能な方法で作曲したといえる。

2.ナポリは18世紀、欧州音楽の中心だった
ナポリは17世紀にはすでに4つの音楽院が存在し、18世紀、モーツァルトの時代にはヨーロッパの音楽の中心地になっていた。何人もの天才が生まれた。ほんの数人を挙げると、スカラッティ親子、ペルゴレージ、チマローザ、スポンティーニらがいる。スカルラッティ(父)の曲は後にバッハが発展させた音楽形式に先んじており、スカルラッティを始祖といっていいナポリ学派はヨーロッパを席巻したのだった。ウィーンの劇場でのオペラ上演は通常イタリア語で、イタリア語はヨーロッパ共通の「音楽言語」だったのだ。

3.指揮法を学ぶ(ナポリ学長の一言で)
音楽院のナポリ学長は「君は指揮しようと思ったことなないかね」と私に尋ねた。彼は私のピアノを聴いて音楽を「交響曲的」に考え、理解する学生だと思ったようだ。つまりピアニストより指揮者に向いているというわけだ。この時から私は指揮者を目指すための第一歩を踏み出した。
 偉大な指揮者トスカニーニは、「腕は頭脳の延長である」と言った。指揮者ミトロプーロスは、右腕はリズムをコントロールし左腕は「心」を表現する。つまり2本の腕が自立することが求められるといった。私の場合、腕の振り方は最初から自然にできた。それより指揮者としての基礎をつくる上で最も重要なのは作曲の勉強ではないだろうか。作曲家の視点からスコアを分析することに繋がるからだ。以後私は和声楽を4年、対位法を3年、管弦楽法を3年みっちり学んだ。ピアニストであることは楽曲の分析をする基本であるとともに、歌手との仕事にも大いに役立つ。さらに私はヴァイオリンを習うことで音楽の勉強をスタートさせた。弦楽器のテクニックを知っていることはオーケストラとの協業に有効だ。

4.ピアニスト・リヒテルの試験
1967年11月。雨の日だった。シエナ音楽院の練習室に入ると2台のピアノが置いてあり、あの大男リヒテルが立っていた。彼は向かって左側のピアノに向かい、通訳を介して「あなたは右側に座ってオーケストラのパートを弾いてください」と告げた。私は内心、予想した通りだと思った。
 テストは、まずモーツァルトのコンチェルト第15番から始まった。第1楽章から第3楽章まですべて一緒に弾かされた。弾き終わると、リヒテルは何も言わず第4楽章まであるブリテンの協奏曲へと進んだ。無事難曲を弾き終わると、リヒテルがこう言った。「あなたが今弾いたように指揮してくれるなら、一緒にコンサートで演奏しましょう」。こうして彼との協演が決まった。
 フィレンツェでの演奏会を機に友人となったリヒテルは、私がヴォット先生の影響を受けて暗譜で指揮するのを見て「なぜ暗譜するのだい。目を使わないのか」と言ったことがある。この一言で私は必ずスコアを譜面台に於いて演奏するようになった。スコアは何年読み続けていても本番に新たな発見をもたらしてくれることがある。

5.オペラ指揮者の勉強
1969年、私はフィレンツェ5月音楽祭歌劇場でオペラ指揮者として本格的な活動を始めた。オペラ上演の出来不出来は演出と音楽が一体化しているかどうかにかかっている。
 登場人物の役柄をつくり上げるためには指揮者と歌手と一対一でじっくり稽古をしなければならない。私はまずピアノの前に座り、歌手に役柄について説明することを常としている。特に台本の言葉が音楽と密接に結びついているヴェルディの作品では、言葉が持つ意味を歌手たちに奥深く理解してもらう必要がある。そしてオーケストラにも作品の内容をきちんと伝えることが、その場面の状況にあった音楽の表現に繋がるのである。

6.名指揮者カラヤン
1971年、私はカラヤンによってザルツブルグ音楽祭に招かれ、ウィーンフィルを初めて指揮することになった。カラヤンはまだ30歳の自分をなぜ引き立ててくれたのか。思い当たるフシがあった。
カラヤンはいつも若い指揮者を気にかけていて、キャリア形成のチャンスを与えてくれた。ズービン・メータ、小澤征爾、クリスティアン・ティーレマン・・みなそうだ。これはもっと知っておいてもらいたい話である。彼は1989年7月にこの世を去ったが、私にこう言ったことがある。「良い指揮者は30年経っても自分と共演する音楽家に本質的に同じことを繰り返すことができるほどの忍耐力を持っている」と。

7.ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン・フィルの奏者たちは常に彼らの伝統である音色、フレージングや演奏の仕方を維持しようと努力している。昔はイタリア、フランス、ドイツとオーケストラの音色を聴き分けることができたが、今では多くのオーケストラがグローバル化して、ほんの少しの特徴しか残していない。だがウィーン・フィルは聴けばすぐウィーン・フィルだと分かる。歌手で言えばマリア・カラスやパヴァロッティの声のように、すぐに誰だと分かるのだと同じだ。
 ウィーン・フィルは名指揮者クレメンス・クラウスを最後に33年以来、常任指揮者を置いていないが、私は名誉団員として特別な関係を築いて来た。92年のウィーン・フィル150周年記念コンサートを指揮したときには、楽団がオーケストラとの神秘的な結婚を意味する「金の指輪」を贈呈してくれた。恒例のニューイヤー・コンサートの指揮は6回に及ぶ。

8.歌姫マリア・カラス
ここで作曲家とディーバ(歌姫)の特別な思い出を書いておきたい。私は1970年代初めから、ベルリン・フィルとも何度も共演した。ここで伝説の歌姫、マリア・カラスをヴェルディの「マクベス」の舞台に立たせることができないかと思ったのは1974年のことだ。もう何年もオペラの舞台から遠ざかっていたが、マクベス夫人の役は彼女だという思いが強かった。ヴェルディが言ったように「魂を込めて演じる女優」カラスの姿を見たかったのだ。
 彼女は英EMIにオペラ全曲盤やアリアをレコーディングしていた。私が主役の相談で「マクベス夫人をカラスに頼めないだろうか」と懇意のEMIのプロデューサーに話した数日後、彼女から電話が掛かってきた。
「私のことを考えて下さってうれしいです。でも、もう遅いです」と言った。あの声音は今でも鮮明に耳に残っている。彼女については多くが語られているが、私が強調したいのは歌手としての姿勢だ。彼女はオペラのリハーサル全てに立ち会ったという。自分の出番がないときでも劇場に顔を出し、オーケストラだけの練習も聴きに来ていた。スター性のある歌手には多忙のあまり、自分が歌うシーンがない稽古には来ない人が多い。カラスはこういう人だったということを私は知って欲しい。

リッカルド・ムーティ
Riccardo Muti
リッカルド・ムーティ
基本情報
生誕 (1941-07-28) 1941年7月28日(82歳)
出身地 イタリア王国の旗 イタリア王国ナポリ
学歴 ミラノ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
担当楽器 指揮
活動期間 1965年頃 -
レーベル EMIソニー・クラシカルPhilipsDG

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941年7月28日 ナポリ - )は、イタリア人指揮者シカゴ交響楽団名誉音楽監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員。

[ 前のページに戻る ]