磯崎功典 いそざきよしのり

食品

掲載時肩書キリンHD会長CEO
掲載期間2025/05/01〜2025/05/31
出身地神奈川県小田原市
生年月日1953/08/09
掲載回数30 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他県立小田原高
入社キリンビール
配偶者安川教授秘書・ヨット仲間
主な仕事チーズ販売、新規事業担当、米国留学、ホテル修行、広報部、ホテル事業、社長、健康食品事業、アクティビスト対決
恩師・恩人山西明、齋藤信二
人脈荒蒔康一郎、芝田浩二、三宅占二、古森重隆、堀口英樹、布施孝之、山形光晴、藤原大介、南方健志、田沼千秋、中嶋常幸、池森賢二
備考ヨット部
論評

キリンでこの「履歴書」に登場は、時国益夫(1969.2)、佐藤安弘(2005.9)、荒蒔康一郎(2015.9)に次いで4人目である。アサヒビールでは、山本為三郎(1957.4)、樋口廣太郎(2001.1)、瀬戸雄三(2011.5)、福地茂雄(2014.6)の4人であるが、アサヒグループではニッカウイスキーの竹鶴政孝(1968.5)が入る。
ビール事業の本流ではなく傍流事業から出発し、ホテル事業、医薬品事業の進出、巨額損失事業からの撤退など幾多の失敗と修羅場を経験し乗り越えてきた経緯を詳しく語ってくれている。

1.乳製品販売
1977年、キリンビールに入社し神戸支店に配属された。新規事業に携わる希望が叶い、既存の販売ルートでない「特販課」に配属された。前年、小岩井農牧社とキリンビールの共同出資により設立された小岩井乳業の商品を小売店に営業する。キリンビールとしては新たなチャレンジが任務となった。
当時スーパーの多くは酒類販売免許がなく、キリンはそもそも彼らとの取引関係が希薄だった。小岩井の乳製品は雪印乳業などの大手に比べて圧倒的に立場が弱い。「このままでは埒があかない」と考え、自分で小売業界や食品産業を研究して、本部バイヤーへ店舗にメリットがある提案をするしかないと考えた。
「市場分析と予測」「あるべき売場面積」「商品構成の原理」などデータをびっしりと書き込んだ何冊ものノートは今も大事に保管している。これに足で稼いだ個店の生の情報に理論やデータを加えバイヤーにプレゼンすると、一気に信頼が高まった。

2.米国留学でホテル経営学を
新規事業がつぶれて、やることがなくなった私に「留学をしたらどうだ」と後に社長になる荒蒔康一郎さんが道を開いてくれた。会社の事業に役立つ学問が良いと勧められ、ホテル経営学で世界トップの米コーネル大学に狙いを定めた。キリンの外食関係の営業活動に生かせるかもしれないと。
大学では、学生が5人程度のチームとなって、新設ホテルの計画策定を競うというプロジェクトも大変な重荷だった。順番にメンバーの家に行って深夜から徹底的に議論する。終わるといつも朝方で、「世界にはここまでやる人たちがいるのか」と思い知った。学生たちは大学での成績に将来がかかる。米ビジネス界でリーダーを目指す「狩猟民族」の体力と精神力に圧倒された。2年間の悪戦苦闘の末、卒業式を迎えることができた。そして、ホテルの実務を経験したいと考え、会社に頼み込んで滞在延長を認めてもらい、ミズーリ州のリゾートホテルで1年ほど働いた。
オーナーに直接雇われた私が現場に踏み込んで課題を見つけて解決に導く仕事をしたことで、総支配人とも衝突した。「私が何もしていないみたいだ」と皮肉られ、口論になったが、私を勇気づけ、応援してくれたのがホテルオーナーのブラウン夫妻だった。また、エグゼクティブシェフをしていたトレス夫妻も頻繁に自宅に招いてくれ、我々日本人の家族が孤立しないように励ましてくれた。常に問題解決にかり出され、財務や人事、ホテル設計といった業務に深くかかわった1年だったが、マン・オブ・イヤーに選ばれた。

3.東日本大震災でCSV(共有価値の創造)の出会い
2011年3月11日、東日本大震災の被害は甚大だった。多くの尊い命が失われ、被害に遭われた方々を思うと、今も胸が締め付けられる。キリンビール仙台工場も大きな被害を受けた。津波が押し寄せ、高さ20mもあるビール貯蔵タンクは15本のうち4本が倒壊し、倉庫なども浸水した。約1か月後、キリンHDの危機管理担当役員として現地に入って私は愕然とした。建物の内外にビール缶やケースが散乱している。工場の再開など本当にできるのだろうか。再稼働には莫大な費用が掛かる。日本のビール市場は縮小傾向にあり、今後進む少子高齢化を考えると無理に再開する必要はない。この機会に閉鎖した方が合理的だ。
 だが、工場の周りや仙台の街を見たときに「ここで逃げ出すわけにはいかない」と強く思った。製造・販売のサプライチエーンは、多くの企業と地域が支えてきた。工場で生産されたビールを永年飲んでいただいた東北の皆様が苦しんでいる。撤退する経営判断はありえない、と。悩み続ける中で出会ったのが著書「競争の戦略」で知られる米ハーバード大のマイケル・ポーター教授の考え方だ。CSV(共有価値の創造)経営という概念で、企業の強みを生かして社会課題を解決し、同時に経済価値の創出にもつなげていく。企業の持続的成長に寄与し、株主も歓迎するという好循環を生み出すものだ。2012年3月にキリンビール社長に就任したが、CSVを社内に浸透させる対話集会を10年以上続けている。

4.ヘルスサイエンス事業に進出
社長就任後 4年、構造改革は大きな成果を挙げ業績も向上した。中期計画の主要な数値目標をすべて達成し、2018年には株式時価総額が3兆円弱と過去最高を記録した。好業績のタイミングで社長の職を譲るという選択肢が一般的かもしれないが、かねて温めていた「長期経営構想」を19年に発表し、その先を目指した。これが企業を長く存続させるための使命であると思い、いばらの道を歩む覚悟であった。
 そもそも、長期経営構想はCSVの理念を具現化するもので、目指す姿は「世界のCSV先進企業」。そこで次の柱に据えたのがヘルスサイエンス事業。その構想の基点はキリンが2010年に発見した「プラズマ乳酸菌」だった。通常の乳酸菌が一部の細胞のみに作用するのに対して、プラズマ乳酸菌は免疫細胞の司令塔を直接活性化する。これを様々な食品や飲料に導入するビジネスモデルを進めたいと考えたのだった。

5.布施孝之さん
2021年9月1日、二人三脚で歩んできた同志・布施孝之さんを突然、失った。いつもと変りなく元気で働いていたのに、急に心臓に不調をきたした。初任地が同じ神戸支店で、私の5年後に入社してきた。傍流を歩んだ私とは対照的に、本流のビール営業でキャリアを積んだ。温厚で「人を敵に回さない」という私にはない強みを持っていて、とても頼りになる仲間であった。
 久しぶりにタッグを組む関係になったのは、私がキリンビール社長だった14年。同社傘下の営業専門会社の社長に布施さんが就いた。そして翌年、私がキリンホールディングス社長になると彼がキリンビール社長に。二人の共通テーマは組織風土改革だった。負け続けている要因を他の人のせいにする「他責文化」を払しょくしようと力を尽くした。キリンは利益重視のあまり販促費が絞られ、ビールの営業に長年諦めムードが漂っていた。ホールディングス社長になった私は、事業売却や多角化を推進してきたので、ともすれば本業のビール部門の士気が低下しかねない。布施さんのリーダーシップが頼りだった。私よりずっと我慢強い性格で、社員の意識と行動が変わるまで何度でも丁寧に語りかけた。なかなかできないことだ。現場を盛り立ててくれたおかげで戦ってこられた。布施さんが率いるキリンが放ったヒットの代表例は、18年に発売した第3のビール「本麒麟」だ。キリンを復活させると同時に「生え抜き主義」が強かった企業文化を変える象徴にもなった。

6.プラズマ乳酸菌
2020年に猛威を振るった新型コロナウイルス感染はキリンの事業活動の大きな転機にもなった。外出自粛が長期にわたり、飲食店向けのビール売上が激減。既存事業の打撃は大きく、経営陣も従業員も不安に襲われた。「世界が危機に直面するとき、キリンができることは何なのか」。コロナ禍で社会全体が動揺する中、我々の使命をずっと考え続けた。プラズマ乳酸菌の新ブランドを17年に発表し、その後さまざまな食品として展開してきた。20年秋、プラズマ乳酸菌がついに免疫機能で日本初の「機能性表示食品」として消費者庁に届出受理された。世界の消費者の手に届けるためには販路も開拓しなければならない。22年、オーストラリアの健康食品会社最大手であり、アジア太平洋地域で強固な販売基盤を持つブラックモアズを1700億円で買収することで世界に販路を拡大できた。

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