掲載時肩書 | 参議院議員 |
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掲載期間 | 1960/09/06〜1960/10/02 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1893/05/15 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 愛知教育大学 |
学歴その他 | 岡崎女子師範 |
入社 | 高等小教員 |
配偶者 | |
主な仕事 | 名古屋新聞、新婦人協会、渡米、 母性保護運動、大日本婦人会 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 広岡浅子、村岡花子、平塚らいてう、伊藤野枝、奥むめお、金子しげり、津田梅子 |
備考 | クリスチャン |
1893年〈明治26年〉5月15日 – 1981年〈昭和56年〉2月11日)、愛知県生まれ。婦人運動家、政治家(元参議院議員)。第二次世界大戦の前後に渡り、日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った
1967年(昭和42年)の統一地方選挙では東京都知事選挙で美濃部亮吉を支持。その一方で、石原莞爾を「高潔な人格者」「立派な軍人だと思います」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」に加入し、右翼の大物、田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄、オールド・ライトの小説家、山岡荘八に協力した。これらの行動は、清潔をモットーにかかげれば、全体主義の軍人や任侠とも連携する市川の体質を、よくあらわしている。
1.新婦人協会の設立
大正8年(1919)ごろ、友愛会をやめて間もなく平塚らいてう氏から、婦人会を作って婦人の地位向上に努力したいから手伝って欲しいとの話があった。婦人の地位向上、男女平等への運動はかねての願いだったので早速賛成、婦人参政権獲得、女子高等教育の要求、家庭婦人の地位の向上、勤労婦人の福祉向上等、婦人運動のすべての題目を目的とした新団体を組織することにした。
この運動では封筒書き、謄写版刷りまで平塚氏と私と二人でやったが、誰か今一人と奥むめお氏に白羽の矢をたて、ときどき手伝ってもらった。
2.米国の特派員時代の思い出
激しい新婦人協会の運動で疲れ、平塚氏も同じようにノイローゼ気味になった。私は休養と勉強のため渡米することを思い立ち、この前年米国から帰って読売新聞外報部にいた兄の助言と、主筆の大庭氏の好意で、読売の特派員として10年の7月に渡米することになった。シアトルに着くと早速、住み込みのアルバイトをすることになった。しかしその前に、私が英語の勉強のために小学校に行きたいと言ったら、住み込み先の元小学校の奥さんが連れて行ってくれ、小学3年生に入れられた。極まりが悪かったが、子供にかえったような楽しい日が続いた。給料は食事付きで1週間3ドルぐらいだったと思う。
6月から8月までの3月間はミシガン湖岸のサマーハウスで働き、週給8ドルだった。この夏が終わるとニューヨークに移動し、ベッドメイク、掃除、赤ん坊の世話などのアルバイトもこなした。その一方、コロンビア大学の公開講座にも通ったし、米国社会党のランドスクール夜学にも通った。
3.婦人参政権獲得運動時代の生活費
この参政権獲得同盟の事務所は、その会合、看板書き、ポスター、ビラの発送などで大混雑していた。それだけに職員も常時5人おり、10年度の決算を見ると、その人件費年2千円、事務所費が家賃電話代ともで1千円、運動費3千円となっている。これに対する収入は、会費、事業利益、寄付金各2千円ずつで、それを作るのはみんな私の責任で、10円、20円の借金に歩いたこともあった。
私が労働局をやめて運動に専念するようになった当時、久布白総務理事から是非月給をとるように言われたが、運動で食べていると非難されるのが嫌で、ずっと一文も貰わなかった。それでだいぶん苦労したが、講演の謝礼と原稿料でかろうじて生きてきた。
4.参院理想選挙―法定費用の約1割で当選―
昭和28年(1953)3月の参議院選に出馬を要請された。出馬の受諾条件は、①私の立候補を望む人たちで市川推薦会をつくり、②代表者が届け出をすること、③費用も運動も推薦者が責任を持つこと、④絶対に選挙違反に問われないようにすること、⑤トラック、拡声器は使わないこと、⑥候補者はラジオと立ち合い演説会にしかでないこと、だったが受け入れられた。
私は3回のラジオ放送と36回の立ち合い演説会には全部出たが、そのときだけ近所の円タク会社の車を使い、あとは婦選会館内の事務所で来訪者のお相手をしていた。もちろん当選は期待していなかったのに、約19万2千票、4人のうち第2位で当選した。集まった寄付は約49万円あったが、費用は約18万千円で済んだ。法定費用は約156万円であったから、約1割で済んだわけである。残った金でパンフレット「理想選挙の一例」を印刷、無料配布したが、それでも残った金は寄付した。
市川 房枝 いちかわ ふさえ | |
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1940年頃 | |
生年月日 | 1893年5月15日 |
出生地 | 日本 愛知県中島郡明地村(現:一宮市明地) |
没年月日 | 1981年2月11日(87歳没) |
死没地 | 日本 東京都渋谷区 (日本赤十字社医療センター) |
出身校 | 愛知県女子師範学校 (現・愛知教育大学) |
前職 | 名古屋新聞記者 国際労働機関職員 日本婦人有権者同盟会長 |
所属政党 | (無所属→) (第十七控室→) (無所属クラブ→) 第二院クラブ(1962-81) |
称号 | 参議院永年在職議員 愛知県一宮市名誉市民(旧・尾西市) |
選挙区 | 東京都選挙区→ 全国区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1971年7月3日 1974年7月8日 - 1981年2月11日 |
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。元参議院議員(5期)。
1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成[1]。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した[2][3]。