鼻つまみ者

武田は暖簾のある老舗製薬企業を創業家出身でしかできない大改革を成し遂げ、日本企業から世界企業に飛躍させた人物である。1940年兵庫県御影生まれ。甲南大学卒業、昭和37年 武田薬品工業入社、昭和62年 同社取締役就任、平成5年・社長、平成15年・会長 。

 彼は大阪の古い商家の3男として生まれた。生まれながらにして長男・彰郎が後継と決められていた。将来の家長とそれ以外の子供は明確に区別され、長男には早くから帝王学を施されていた。3男の彼から見れば長兄を育てるためにある家庭であった。
 だから小さいころからひがみ根性がしみつき、学校でもおよそ勉強しない劣等生で、家庭では「鼻つまみ者」とされ、生きてきたと述べている。
1980年、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝した。長男の社長就任を誰よりも願っていたのは会長であり、父であった六代目長兵衛だった。このショックで父は抜け殻のようになり半年余りで亡くなるが、その5日前に彼は父を見舞った。その時の父の顔を忘れることができないと次のよう書いている。

病室のベッドに弱々しく座り、じーっと私を見つめていた。ひと言も口をきかない。しかし、その目が語っていた。「なんでくだらんお前が生きとんのや。彰郎の代わりにこのアホが死んどってくれたらよかったんや」と。私は父の生きる力まで奪った兄の存在の大きさを改めて思った。そして私の存在の小ささを思った。

彼は兄の死から13年後に社長のお鉢がまわってきた。会長からは鼻つまみ者として扱われ、会社からは落ちこぼれとして海外や食品など傍流の事業部に預けられ、部屋住のように扱われてきた。しかし、この寄り道人生が彼には幸いしていた。それは長く窓際にいたので自社のダメなところが手に取るようにわかっていたからだった。
社長就任と同時にゴマスリはいらん、無駄な人員を減らせ、儲からん工場を閉めろ、医薬の稼ぎに寄りかかっている多角化を見直せ、と10年間同じことをわめき続けた。その結果、その成果が出て世界の土俵にあがることができたと述懐している。
 人生は予測不能である。与えられた仕事を忠実に誠実に取り組んでおれば。自分の順番に回ってきたとき、今まで培ってきた経験や知識が生きてきます。自分の出番を信じて実力を備えましょう。