腰から下が完全にマヒ

大和ハウス工業創業者で元社長・会長。日本の戦後の住宅普及に貢献したプレハブ住宅の「ミゼットハウス」を開発した。1939年、奈良県立吉野林業学校(現・奈良県立吉野高等学校)卒業後、満州の営林庁に勤務する。1942年、前橋陸軍予備士官学校を卒業し、従軍するが、復員後、大和ハウス工業を設立した。

石橋は1921年、奈良県で生まれたが、子供のころから大柄で近隣でも評判の暴れん坊だった。お山の大将にならないと気が済まない性分で、口より先に手が出てしまっていた。相手に怪我をさせると母親がそのたびに夜、ちょうちんと果物を持って謝りに行く日常だった。
昭和19年陸軍少尉に任官していた彼は速射砲隊の小隊長として満州で猛演習訓練の指揮をとっていた。しかし、零下30度近い雪原で背中に1トンの馬ソリが当たり大事故に遭う。気がついた時は陸軍病院のベッドの上で、腰から下が完全にマヒしていた。診断結果は脊髄打撲損傷の機能障害だった。特性のギブスは尾骨のあたりから頭まであり、磔の刑のようだった。寝たきりのまま、何日も入院生活をおくっていると、次第に気持ちが荒れ、看護師に当り散らす、食事はひっくり返すで、誰も寄り付かなくなった。そんな彼にふだんの調子で話しかけてくれる大野看護師さんが、自分の夫の戦死と一粒種の子供を亡くした心境を次のように語ってくれた。

1年間、絶望のあまり夢遊病者のようになっていました。そのうち、これでは死んだ夫にすまない、と思うようになってきた。戦争で傷ついた将兵のみなさんを看護できれば主人も喜んでくれるだろうし、自分も立ち直れるかもしれない。(中略)。死ぬのは簡単だけど、生きるって難しいですね。

彼にはこの一言「死ぬのは簡単だけど、生きるって難しい」がガーンと頭に一撃した。荒んだ心がこの日を境に「ありがとう」の言葉が出るようになったと述懐している。そして新しく赴任してきた水上軍医の施術と彼の治したい懸命の努力が一体化して実り、1年6ヶ月に及んだ闘病生活を終えることができた。それは軍刀を杖に昭和20年8月8日の退院だった。
この後、満州の原隊に即刻復帰するが捕虜となりシベリアに抑留、3年を経験して帰国する。実家が植林、製材を業としていたため木に愛着があるので、大和ハウス工業を設立し、「建築の工業化」を企業理念に、創業商品「パイプハウス」やプレハブ住宅の原点「ミゼットハウス」などを開発して大発展させる。この石橋の薫陶を受けた樋口武雄社長が「履歴書」(2012.3.1-3.31掲載)にその後の経過を詳しく書いてくれています。