常に進歩と向上を

私は今、ライフワークとしている日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した全861名を読み返しています。そして各界のリーダーであるこの登場者が、「何を後世に伝えたい」のか、または「知って欲しい」のかを抽出・抜粋しているのです。その一環で、今回能楽狂言方の人間国宝・六世野村万蔵氏昭和53年(1978)2月登場を読み始めました。氏は、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開会・閉会式の総合演出責任者になっておられた二世野村萬斎氏の祖父に当たる人(万蔵氏の次男野村万作二世の長男)でした。そして、確かこの野村万蔵氏や落語家の三遊亭円生師匠は天風先生と親しかったのでは?と思いながら読み始めたのです。

するとびっくり仰天の3発見がありました。それを次に紹介します。

野村万蔵(能楽狂言方)「私の履歴書」昭和53年(1978)2月登場 

万蔵氏は1898年(明治31年)7月22日 に東京に生まれ、1978年(昭和53年)5月6日に79歳で亡くなっています。そして家系は、狂言方能楽師、五世野村万造の長男で、九世三宅藤九郎は弟になります。戦後の「第一次狂言ブーム」において、息子の万之丞(七世万蔵)・万作などの活動と共にクローズアップされました。氏の芸風は型に忠実なものでありながら、老年にいたって型にとらわれない飄逸さ・写実性を加え、名人として高い評価を受けました。また狂言面など古面を蒐集する一方で能面打ちとしても知られ、自作の能面や狂言面を多数残している方でした。

この「履歴書」記述には、「能と狂言」「狂言流派」「修行と芸」「出演時の心得」などがエピソードとともに詳しく語られています。いよいよ最終「私の履歴書」2月28日の冒頭に「芸の世界」で天風先生の名前が飛び込んできました。それが、つぎの文章です。

「あなたの舞台は、一応、結構に思うのだが、なにか物足りないものを感じる。人間が練れていない

ところがあるのではないか」といった投書が、ある時、私の家に舞い込んだ。私は「ウム……」とうなった。芸には性格が出る。私の欠点も現れる。私は気が短く、せっかちなことは自分でもよく知っている。

投書の主は「精神修行に、中村天風という先生の話を聞け」と書いていた。

行ってみると、三百人ぐらい入れる大広間の向こうに先生かおり、九十というがそうは見えない。至極元気で、その第一声が、

「お前たちは!」 ときた。

「生かしてもらっていることを、感謝しているか!」

 すさまじい剣幕に仰天したが、話の内容に聞きほれ、私は個人的にも相談するようになった。

「私は、おこりっぽくていけないんですよ」

「そういう時はケツの穴をしめろ」

 と言ったりする、面白い先生であった。先生はほどなくして他界されたが、私はこれを機会に精神

の充実を心がけた。

 さて、私か七十になったころである。なぜか急に、観客がこわくなった。舞台で体が震えてしまう。

狂言師として、まだ未完成の証拠と思った。医者は病気ではないというが、どうにも、この恐怖から

脱却できず、弱った。

で、人の勧めで高尾山の薬王院本坊で行われるという、万年青年会の夏季講習に参加した。会長の故宮田信念先生(「志るべ」註:夏期修練会に参加されていた天風会員)から、

「七十すぎてからここへ来る人はあまりない。あなたは見上げた人だ」

と、イヤにほめられた。先生の講義を聞いたあと、隅の方に、ハチ巻きして、もろはだぬいだ男が

いる。その人が、「野村さーん」と手招きする。昨年亡くなった宮入行平さんという刀匠である。

 私が、高尾山に来たわけを説明すると、宮入さんは、

「いや、私も同じなんだ。刀剣を焼く時には、精神統一が絶対必要なのに、心が乱れ、雜念がわく。

それを直しに来たんです」

 宮人さんの胸は、永年の刀工でやけどだらけである。炭焼きの重労働といい、名刀を鍛えるには、まずもって人間を鍛えなければならない。それは狂言の道も同じであると、今さらのように悟った。

 講義を終えた先生から呼ばれて壇上に登った。私は命ぜられるままに腕を出した。「痛くないぞ!」と、先生は気合もろとも太い針でプスリと私の腕を刺し貫いた。

 「痛いか?」

 「いえ、少しも」

 「痛くないと思えば、痛くない」

と言って針を引きぬいた。血管を避けているとみえて血も出ない。そんな教えを受けて、私の恐怖感は、次第に薄らぎ、今日では舞台へ出てもどうやら震えなくなった。いずれにせよ、芸の修業に終わりはないのだ。

 狂言は、象徴的な能と、写実的な芝居との中間を歩いているような芸で、そのどちらへもよろめき

たがる危険性がある。だから基礎訓練が厳しいのであろう。

(中略)

狂言は、まだまだこれからの発展に期待できる芸であると、私は思う。伝統芸であるから、時流に

沿うような改め方、崩し方は慎まねばならないが、その中でもやはり進歩は必要だと考える。同じ型

の中に、個人差、個性があり、それが芸の世界であり、型だけやっているのは死物といえよう。それ

は前にも言った活字と肉筆の違いである。・・・

これらの記述が冒頭テーマの「芸の世界」が「常に進歩を心がけて」に繋がっているのですが、びっくりしたのはこれを読んだ後です。

びっくり3発見

1.こんなに天風先生と行修風景を詳しく描写した「私の履歴書」登場者は、広岡達朗氏(元ヤクルト、西武監督)以外にはいませんでした。広岡氏はこの中で夏期修練会や「真人生の探求」「誦句集」を具体的に挙げられて天風先生と天風会を紹介してくれていたので、同じびっくりでした。

2.「志るべ」にも野村氏の「寄稿があったはず」と思い天風会事務局のご厚意で調べると、昭和53年(1978)4月の「志るべ」184号に載っていました。びっくりしたのは「私の履歴書」に登場は同じ昭和53年2月登場の最終回記載内容と、4月の「志るべ」184号に載っていた文章が全く同一だったことです。違っていた箇所は故宮田信念先生に「志るべ」註釈があっただけでした。

3.さらに驚いたことに、この「志るべ」4月掲載の1か月後の5月6日に野村氏は79歳で亡くなっていたのです。天風先生と同じく、最晩年まで常に「進歩と向上」を心がけて生涯をまっとうされた方だと感動したのでした。