社会が必要とする企業に

中内はダイエーの創業者であり、ローソン、福岡ダイエーホークス、ホテル、流通科学大学、リクルートなど、ダイエーグループの総帥者で、「流通王」「価格破壊者」「カリスマ」「流通の革命児」とも呼ばれた。

大正11年(1922)、兵庫県生まれの中内は、昭和16年(1941)、神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業する。同17年(1942)、日本綿花(現:ニチメン)に入社し、同18年(1943)陸軍に応召。復員後の同20年(1945)、神戸三宮に薬局を設立するとともに、旧制神戸経済大学(現:神戸大学)に進学するが、中退。同32年(1957)大栄薬品工業(のちのダイエー)を設立し、社長となる。その直後「主婦の店ダイエー」1号店を出店する。

13人の社員とともに100平方メートル弱の店舗でスタートしたダイエーは、平成6年(1994)、創業から37年がかりで北海道から沖縄までをカバーする、日本初の全国チェーンとなる。
年間売上2兆5900億円、店舗数356店で、中内の永年の夢であったナショナルチェーン構想は実現した。これにより、彼は流通業の革命寵児としてもてはやされることになる。
しかし、日々の生活必需品を安心して買える社会をつくろうと決意し、「良い品をより安く、より豊かな社会を」の会社憲法を前面に打ち出した創業期には、経営の精神的拠り所を求めて苦しんでいた。社業は好調だったものの、昭和45年(1970)に会長を務めていた父親が亡くなり、相談相手を失って経営に対する進路に疑問を感じたからである。

〝価格破壊者〟〝流通の革命児〟といわれていることが、果たして正しいことなのだろうか?」と、日夜悶々とする。そんなとき、精神的な救いを求めて、臨済宗妙心寺派の管長、山田無文老師を訪ねる。悩みを打ち明けた中内は、老師の次の説教で悟りを開く。当時を回想して、中内は次のように語っている。
「仕事の迷いや不安を話すと、老師は『大衆のためにという菩薩心から出発したから成功できたんや。スタートの気持ちを最後まで貫けば、いつ死んでもええはずや』と説教してくださった。酔いも手伝い、父の死後、頭を離れなかった迷いが少しずつ晴れるような気がした。
『社会が必要とするなら、あんたの会社はおのずと残る」
極め付きのこの一言で、命ある限り自分の信じる道をひたすら歩む腹を決めた。まさに『不惜身命』の心境である」(『私の履歴書』経済人三十五巻 366p)
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「価格破壊」を信条とする中内と「適正価格」が信条の松下幸之助との長年続いた「価格戦争」は有名な話ですが、お互いに流通業とメーカーの立場の違いによる経営と消費者に対する強い信念であるだけに、その妥協点を見つけるのは難しかったと思われます。