目的意識を持って転職

小説家、劇作家、脚本家。数多くの時代小説のほか恋愛・人情小説などを多く書いた。「新吾十番勝負」「愛染かつら」などが代表作。「風流深川唄」「鶴八鶴次郎」「明治一代女」などで大衆文学の大御所の一人といわれる。

川口は1899年、実親を知らない子として東京・浅草の貧乏職人の家庭で育てられ、小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧、古本露天商、警察署給仕の後、電信士の資格を取り電信局に勤務することになる。しかし、職場は空気の流通が悪いので一日中発信機を叩いていると呼吸器がやられるため、結核患者が多くいた。彼は文筆家になりたい希望を早くから持っていたので、文章を絶えず書いていたし、詩や歌も作って同人雑誌にも出していた。そこで文学に近い環境に職を求めないとダメだと気づき、知人を頼って娯楽雑誌に雑文投稿や宣伝雑誌の編集、無名新聞の編集など、どれも半年とは続かない職業を転々とした。その間にもいつ発表できるか判らない小説や戯曲を勉強のつもりで書いていた。書き出すと勤めが厭になってやめてしまい、暮らしの立っている間は書き続け、金がなくなると職を探して歩く奔放な生活だった。

こんな自分本位の自堕落な生活を送っているので、友人には迷惑をかけ、借金をこしらえて払えなくなり、知人には愛想をつかされ、手に負えぬ不良児になったが、文学書は手放さず、芝居は見つづけた。
彼の楽しみは芝居と講釈と落語だけだった。芝居は歌舞伎と新派だったが毎晩のごとく安い木戸銭の座席で見ていた。これらの芝居などを見ている間にも職業は転々と変わったが、大勢新聞に勤めたときには、有名な劇評家から歌舞伎の知識を教えてもらっていた。
芝居と落語に熱中の次は義太夫に夢中になり通ったという。理由は、芝居は役を受け持つ弁慶や義経の役者がそれぞれの人物に扮するが、義太夫は、太夫と三味線の二人だけで全部の役をやり分ける。どの一人にも成りきってうまく語るのだから、ほとほとと感心してしまうからだった。
仕事よりも芸能好きだから貧乏暮らしは続いていたが、この時の芝居気違い時代がなかったら、脚本家の下地を作れなかったと述懐している。
その後、講釈師許に住込み口述筆記を手伝い、時代小説を書くための知識を習得した。そして久保田万太郎に師事して文学仲間の交友を広めてもらった。小山内薫のもとでは戯曲を勉強し、関東大震災の後、大阪で雑誌編集に携わった経験を経て作家の道に入っていった。

彼が生まれ育った浅草の特徴は、あらゆる芸能に熱中する気風のあったことで、芝居でも寄席でも、浄瑠璃でも清元や常盤津、長唄まで聞きに行ったり、師匠について習ったりした経験が、のちのちどれほど彼の戯作者として各種芸能に役に立ったか判らないと述べている。そして若い演劇志望者に次のように助言している。

「芝居や寄席へばかり通っていて不真面目な男だ」と避難されたのが、その実大きな勉強になっていたのだ。
私は今の若い演劇志望者に「十冊の本を読むより一つの芝居をみろ」とすすめている。芝居を見ないで演劇を学ぼうとするほど愚かな努力はない。舞台の実際が先で、理論はあとから付いてくるものでなければならない。

彼は上記のように枚挙にいとまがないほどの職歴を重ねたが、早くから文筆家になりたい希望を持っていたので、その環境に適している浅草にある職業を次々と選び転職した。目的意識を持って転職し、いろいろなジャンルの芸能の戯曲や脚本、小説を書く大作家になることができたのだった。