放浪生活はきっぱり縁を切る

実業家。「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名レンゴー)を設立した。パッキングケースを育て上げ「日本の段ボールの父」と評される。

井上は1881年、兵庫県生まれ。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。高等小学校を卒業後、1895年から神戸の商家での丁稚を皮切りにその後、用紙店の住込み、回漕店、活版屋の小僧、中国料理店の出前持ち、パン屋、銭湯の三助、黒人相手のいかがわしい酒場の手伝い等職を転々とする。1905年、25歳になった彼は一人満州に旅立つ。青雲の志しで満州に来たが、彼が求めていた職はない。雑貨屋の番頭、炎天下の土木工事の監督、弁当売り、炭売り、うどん屋、牛肉の行商、あげくの果ては金鉱を見つけに満州奥地にまで放浪するありさまだった。
借金返済に行き詰まり、ついには自分の身柄を売りつけ西豪州の真珠採り人夫になろうとする。しかしこれは十人のうち半分は死ぬ「超重労働」であると聞く。人買い主に嘆願し、助けてもらってかろうじて、日本に帰る。

 このとき彼は初めて自分を取り戻したようにわが身を振り返り、将来を考えた。朝鮮、満州、中国にわたる流浪の生活は無謀というより、むちゃくちゃであった。それにこの異郷の生活によって得たものは、ただ年をとっただけだった。海外に雄飛して故郷に錦を飾るのを夢見たが、いまやその夢は粉々に砕け、心身ともに疲れ、元の裸一貫の生活に帰るのだ。このとき29歳。彼はここからやり直しだと固い決心をしたのだった。そして次のように書いている。

 まじめに働こう。これまでのような放浪生活はきっぱり縁を切って地道に暮らそう。いまから思えば大陸生活で私が得た、たった一つのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。

1909年、このとき彼は再出発を「紙にするか、メリケン粉にするか」の決断に迷い、ついに巫女のお告げによって「紙」を選ぶ。昔、東京・馬喰町のレート化粧品で使っていたドイツ製品はボール紙にシワを寄せていた包装を思い出し、これを国産化しようと思い立つ。
これがダンボール紙製造の始まりとなるが、やってみると「紙のシワ」が不揃いで出てくる紙が扇形になる。これを均衡にするための試行錯誤を繰り返す。また、紙の質も段(シワ)をつけても風に当たると伸びてしまう苦労を何度も経験する。しかし、大陸での放浪で野宿や人にモノを乞うた惨めさや死ぬほどの苦しさを考えると苦労とは言えない。20以上も経験したいろいろな転職で培った知恵と才覚が生きてきた。あとは彼の不屈の闘志で努力に努力を重ね国産化の成功に導いたのであった。