大横綱は大酒豪 二子山勝治の場合

青森県生まれ。1958年第45代横綱に昇進。1962年、現役引退。幕内優勝10回。年寄「二子山」を襲名。「土俵の鬼」と呼ばれた。栃錦と共に「栃若」隆盛時代を築いた。

彼は23歳(昭和29年1月)で初めて関脇に昇進、殊勲賞を獲得しました。部屋の弟子は15、6人の少人数だったので、稽古は師匠に代わって彼が全部仕切っていました。
師匠の花籠親方(元幕内・大ノ海)は苦労人だけあって何事にもマメで、漬物も自分で漬けるし、つくだ煮も自分でつくる。そして、気軽によく「これから魚屋に出かけるから」とカゴを下げてチャンコの買い出しに行っていたとのこと。
そのような家族的雰囲気の中でよく飲んだといいます。「私の履歴書」の中で、その様子を次のように書いています。

「毎晩、師匠とドブロク、焼酎を飲んだ。花籠さんは秋田の人らしく酒はめっぽう強かった。昭和二十七年のこと、一緒に大森海岸の近くで飲んでいたが、大雪が降って交通が全部ストップして帰れなくなった。後援者の人も一緒だったが、当時ようやく出回りだした日本酒を銚子で260本あけてしまった」

 計算してみると、「260(本)/2(人)=130本(130合×80%=104合=10升4合?……若乃花ひとり分?)となりますが、ここには「後援者の人も一緒」と書いてあるので、後援者が10人いたとして全員あわせても5升は飲めないでしょう。そうすると若乃花1人で8升近くは飲んだことになります(お銚子:1合は8勺=0・8合と計算した)。
彼は「力士はウイスキーを飲むと腰が軽くなる」と言って、弟子には日本酒を勧めていたそうですが、自らはウイスキーが多かった。ある人が理由を尋ねると、野太い声で一言、
「日本酒はうま過ぎる!」