登場者ルール

  勝又氏との面談によると、登場人物本人が30日分の原稿をすべて書くのは、作家や学者など文筆業に携わっている人にほぼ限られる。
 政治家、実業家、芸術家などは、ほとんどの場合取材して記者が書く形である。記者が本人に長時間インタビューをして、読みやすい文章にまとめている。
 「私の履歴書」の執筆は、事前の準備が全てだといわれる。

 文化人の場合は、自著、評伝、週刊誌や雑誌の記事など、手に入る範囲で集めて読み込んでおく。人物像を大方知ってからお目にかからないと「そもそも」から聞くことになり、ご本人に失礼になるからである。「ご著書のどこそこにこう書いてありましたが、それだけとは思えません。裏になにがあったのですか?」というような具合に聞かないと新しい事実は出て来ない。
 また、経済人の場合は社史を読むことが前提である。その人が入社したころ、管理職になったころ、社長になったころ、と時代を区切って会社の動きを調べておく。多くの場合、本人がかかわっているので、それが話の手掛かりになりますといわれた。

 そして、「私の履歴書」完成の“工程”には3種類の型があるとして、刀根浩一郎氏(日本経済新聞社元文化部長)は「私の履歴書」経済人別巻のなかの「談話取材は裏話がいっぱい」で紹介してくれている。それをまとめると以下のようになります。

a.「一から十」まで完全に自分で書く人 
b.回数の仕分けなしに全分量130枚(400字詰め)を書き流し、仕分けを編集に回す人 
c.多忙で執筆する暇がなく、「しゃべるからそれをまとめてくれ」と言う人

 aのケースでも、まったくそのまま活字にすればいい人と、途中で記者が相談にあずかる場合とがある。
 bでは、記者が仕分けしたものを、執筆者が再度、目を通し、OKとなる。
 cは、速記あるいは録音テープをとり、それを記者が原稿にし、最後は本人が手を入れて完成品にする。当然ながら、記者がもっとも深く関わるのは、cの場合である。 
 aの完全に自分で書いた人は、経済人では昭和電工の安西正夫社長、政治家では田中角栄元首相、大平正芳元首相の二人が有名です。

 勝又氏によると、この取材は過去においては速記者などとチーム編成で行っていましたが、現在は記者一人で、ボイス・レコーダーとノート取材で記事に仕上げるとのこと。
 また、取材から完成までの期間は、6ヶ月~1年はかかり、原稿は31~32回分程度を用意して最終的に30回に絞り込むそうです。

(2)登場予定者が急逝したときなどの対応法

 登場者は、原則として現役(新聞掲載時には生存している)であることだそうですが、ときたま、掲載直前や掲載中に急逝されることがある。その場合は登場者の原稿が完成していれば、通常通り掲載されます。2017年までの61年間にそのような事例が4つありました。

掲載直前に急死の場合廣瀬真一(日本通運会長・元運輸事務次官)

 掲載直前に執筆者が亡くなった場合には、文化部の担当記者はその穴埋めに大変な苦労をすることになります。そのときの様子を文化部に20年間在籍し、その間250人近い登場人物との交渉から執筆まで関与された田村祥蔵氏(日本経済新聞社・元監査役・元文化部長)は、その苦労談を次のように書いています。(文芸春秋2007年3月号「日経『私の履歴書』名言録」。

「昭和61年2月に掲載予定の廣瀬真一氏(日本通運会長:運輸事務次官を経て日通に)の場合は、61年1月20日の早朝に亡くなられた。原稿は最後の一回をのぞいて出来上がっており、最終回は読者の反応などを見ながらゆっくりとまとめたい、という余裕の準備状況であった。(中略)しかし、急逝の報を受けて、3月掲載予定のフィールズ賞を受賞の東大名誉教授・小平邦彦博士に急遽お願いした。
 20日朝、広瀬家への弔問を済ませたその足で、東京・落合の小平邸に向かい、一部始終を正直に話して『繰り上げて二月にお願いできませんか』と頭を下げると、小平さんは端正な顔を引き締めて『それは困る』と言われた。『まだ一行も書いていません。三月だというから、頭の中では毎日のようにあれこれ考え家内ともいろいろ話し合っているが、それを字にしていない。あと十日しかないことだし、とても無理です』という」

 結果的には小平教授が受諾して原稿を間に合わせてくれることになりましたが、全体構想から細部の原稿を書き上げる期間は実質8日間ほどだから、大変なご苦労があったと思われます。田村氏も心配と同時に小平教授に申し訳ない気持ちで、その期間中あまり眠れなかったことと推察できます。
 なお、未完の廣瀬氏の遺稿は、翌年の一周忌に日本通運の尽力で「廣瀬真一遺稿集」としてまとめられ、故人との関係の深い人たちに配られたそうです。

また、最近の事例では城山三郎氏が該当します。2007年(平成19)3月に掲載予定で内諾し、前年の8月に執筆を開始、翌年2月には15回分が完成していました。それをもとに、後半をどう書くか担当記者と原稿の打ち合わせをする手はずになっていたが、急逝された。
 担当した浦田憲治記者は15回分の遺稿から、城山氏が読者に伝えたかった「悲惨な戦争体験から得た平和や反戦への熱い思い」を、後日(2007年5月19日)の文化欄で「未完の履歴書」として紹介しています。この記事は担当記者として城山氏の読者に「どうしても伝えたい熱い気持ち」を知ってもらいたいという「やむにやまれぬ記者の執念」のように思えました。
 そしてこの遺稿は、遺族によって、『嬉しうて、そして…』(文春文庫)の中に取り入れられ、出版されています。
 ちなみに、城山氏に予定されていた3月に掲載された登場者は、ねむの木学園園長の宮城まり子氏でした。このときも編集責任者と担当記者は、田村氏と同様ご苦労があったのは想像に難くありません。
 驚いたことに、亡くなった廣瀬氏と城山氏の担当記者は、ともに浦田憲治記者で、この未発表をとても残念がっておられました。

②執筆中の逝去五島昇(東急グループ総帥 掲載:1989年3月1日~31日)

 執筆中の逝去の場合は、五島昇氏がこれに該当します。1989年(平成元)3月1日から連載されていた五島昇の場合は、同月20日に亡くなられたため、翌日の21日「私の履歴書」の文中の末尾に、お断りとして「筆者五島昇氏は20日死去された。本稿は生前に用意されていたもので、遺稿として最終回まで掲載します」とありました。生前中に最終稿が出来上がっていれば、最終回まで掲載されることになる例でした。

③遺稿の場合孫平化(中日友好協会会長 掲載:1997年9月1日~9月30日)

 一月前に完全原稿が編集部に届けられたあと、孫氏が亡くなられため、これは9月1日掲載の末尾に=遺稿、署名は筆者=と断わってありました。