出撃、突入、被弾

大正13年(1924)愛知県生まれ。昭和19年(1944)海軍兵学校卒。同20年(1945)5月沖縄に向け特攻をかけるが撃墜・救助される。同21年(1946)帰国。同27年(1952)学習院大卒、聯合紙器(現:レンゴー)入社。同59年(1984)社長。平成7年(1995)会長。平成16年(2004)死去、80歳。レンゴーの創業者・井上貞次郎は父方の叔父。

*長谷川は昭和16年(1941)12月海軍(江田島)兵学校に入校したが、一週間後に日本は太平洋戦争に突入した。ここでは、歴史や英語、化学や物理の他、航海術や戦史、砲術など専門的な軍事の授業と肉体を鍛錬する激しい訓練を受け、昭和19年(1944)3月に卒業し、航空隊に進む。そして希望通り少尉候補生に任官し、霞ヶ浦航空隊で三ヵ月半、操縦と偵察の基礎訓練を受けた。
 そして、昭和20年(1945)5月24日鳥取県の三保基地で辞世の句を作り、翌日の出撃に備えた。彼は本人の出撃と戦闘状況などを次のように克明に証言している。

出撃。島には標高二百―三百メートルの山がある。視界ゼロ、超低空飛行なので山が見えた時は遅い。「ぶつかるぞう。どうしよう」。高度を上げようかと思っていると、突然、雲に切れ間ができた。切れ間に戦艦とおぼしき敵艦と駆逐艦数隻が見えた。
 敵艦隊を発見しても、すぐ突っ込まなかった。出撃前の偵察機からの報告を思い出したからだ。空母数席を含む大艦隊が沖縄周辺にいるとあった。戦艦と駆逐艦がいれば、後方には必ず空母がいる。戦艦は射撃を開始した。「左、急旋回」。敵艦には目もくれず、空母を求めて北上した。銀河(陸上爆撃機)は貴重だったから、「極力、空母を狙え」が暗黙の了解だった。
 途中、再び乱雲に突っ込んだ。何分飛んだだろうか。突然、被弾した。私の前を弾丸が下から突き抜け、きな臭いにおいが座席に充満した。小山秀一一飛曹と吉田湊飛曹長が同乗していた。伝声管で「小山」と呼ぶが返事がない。レバーを「吉田」に切り替えようとしたが、機は左に傾き滑って落ちる。右手近くに重巡洋艦らしきマストが見えたと思った瞬間、気を失った。
 体に何かに当たる感じで意識が戻ると、海の上でちぎれた翼に波で打ちつけられていた。翼の向こうに吉田飛曹長が浮かんでいるのが見えた。彼は重傷を負いながら「長谷川中尉」と呼んだ。手を握って「しっかりしろ」と叫んだ記憶もある。米艦隊の真ん中だ。悪夢を見ているようだった。また、意識が途切れ気味になる中、小型艇が近づいてくるのが見えた。

長谷川が、死の瞬間までこのように克明に記憶しているものだと驚きを感じました。まさに九死に一生とはこのことでしょう。米軍の駆逐艦に収容された彼は、グアム島で手当てを受け、ハワイの海軍病院に1ヶ月ほど入院した後、収容所で捕虜生活をおくっているが、グアム島に向かう途中、監視の目を盗んで自殺を図ったが未遂に終わったとも書いている。
 私は広島に赴任中、多くの来広者を江田島の教育参考館を案内しました。ここには海軍兵学校の生徒たちの戦争資料が4万点以上も展示されています。神風特攻隊の「敷島隊」第一号出撃の水盃写真、真珠湾攻撃などの特殊潜航艇乗員、回天特別攻撃隊員など2633の英霊、そしてこれらの人たちの遺書や遺品が展示されています。これらの人たちの平均年齢は19.8歳と書かれていました。撃墜されて黒煙を上げ墜落していく飛行機写真や、事故による沈没で海底から脱出できない潜水艦長が、死を目前にして監督責任のお詫びや任務として事故原因の究明を書いている。しかし酸欠のため意識が朦朧としている中、字もだんだん乱れていく遺書を追い読み読みしているうちに、見学者は粛然とした気持ちなります。多くの修学旅行生も入館時は帽子をかぶり、私語が多くざわついていますが、展示が進むにつれ、帽子をとり私語を止め、真剣に遺書や遺品を見つめています。そして出口では目を真っ赤にして礼をして退出するのです。それだけこの教育参考館は無言の教育の場となっていました。