内務省・業務課長として地方行政法に着手

山形県生まれ。東京大学卒後、内務省に入省。事務次官を8年務める。その間、地方自治法をはじめとする地方自治関連法(地方財政法、地方公営企業法、地方税法、公職選挙法など)や東京都の制度は実質的に鈴木が官僚として作り上げた。大阪万博の事務総長、東京都知事。

鈴木は1945年(昭和20)4月には、内閣参事官から古巣の内務省に業務課長として戻っていた。そして、8月15日正午、安倍源基内務大臣、灘尾弘吉次官、入江誠一郎地方局長ら内務省幹部とともに、内務省5階の大会議室で、天皇陛下の玉音放送を聞いた。
みんな、涙で顔をクシャクシャにしながら、この大きなショックを受け止めていた。そして早期復興を目指して動き出す様子を次のごとく記している。

「その日の午後から内務省では直ちに終戦処理体制の検討に入った。戦時業務課長だった私は、部下の奥野誠亮君らとともに、灘尾次官や入江局長の部屋に入って情報収集に努めるとともに、これからどうするべきか話し合った。(中略)
日本が受諾したポツダム宣言の中には『日本の民主主義の復活強化』がうたわれており、私が昭和8年に入省して以来、携わってきた地方制度も抜本的に見直されるのは、はっきりしていた。(中略)
GHQは『日本に民主主義を定着させるためには、これまでの行き過ぎた中央集権制を改め、地方にできるだけ権限を移譲させることが必要』として、まず知事の公選制を迫ってきた。21年にこれを実現したのを手始めに、選挙制度の改正、地方自治法の制定、内務省の解体、警察・教育制度の改正、地方公務員法の制定と次から次へと新しい地方制度をつくっていった。これらはいずれも現在の地方自治の土台になっているものばかりである」

こうして、現在の地方自治の土台をつくった鈴木が、地方行政の生みの親といわれることになった。
それにしても、日本の官僚は優秀で、国家・国民に奉仕する使命感を持ってくれている。日本の新しい民主主義制度を築くために、玉音放送を聞いたあと、ただちに若い官僚が動き出す姿は感動的であった。
日本でいちばん長い日は、ご聖断とそれにつながる玉音放送で終わるが、日本の新しい門出の日でもあったのだ。