具体的会議ルール(委員会の効用)

「明治36年(1903)愛知県生まれ。昭和3年(1928)京大卒、名岐鉄道(のち名古屋鉄道)入社。同20年(1945)運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長となる。同36年(1961)社長。同46年(1971)会長。同49年(1974)死去、70歳。「労務の土川」として知られ、犬山モンキーセンター、明治村など中京圏振興に貢献した。」

*土川は左遷を何度も経験し、自らの「左遷哲学」の会得でこれを克服した。名古屋鉄道を一地方の鉄道会社から、多角的・全国的な事業展開をおこなう複合企業体へと変貌させ、「名鉄中興の祖」とも呼ばれている。
 社内では典型的な「ワンマン社長」として君臨したが、左遷時代の体験から「労務管理」の重要性を認識し、労働組合との関係も「労使対決」よりも「労使協調」型を重視した。そして、「社会貢献・株主利益・社員利益」の利益3分配を提唱し「労使一体感」の醸成に成功する。しかし、彼はこの目標達成のために合理化委員会を設置して、次のルールを決めて取組んだ。この具体的な会議ルールは、現在に置いても大変参考になると思うので紹介する。

「合理化委員会にはいろいろの分科会を設けて会社全体を洗いなおした。委員はおよそ十人程度で、分科会には研究員を配置した。私はこの研究活動の方法を次のように決めた。
一、抽象論はやめる。
二、現状に拘泥しない。いっさいの社内規則、時には法律も白紙として研究する。
三、体面論を否定する。
四、感情論を否定する。
五、七分三分の原理に従い、採決は満場一致をとらない。七分の賛成があればテストし、テスト期間中に訂正していく。
六、合理化は時間のファンクションであると自覚する。
 このほかに経費の一0%以上の節約にならぬことはしない、合理化への投資も一年以内に戻らないものはやらないこと、などがあった。
 合理化委員会は画期的な成果を収めた。委員会発足後二ヵ年にして二十億円以上の経費節約に成功した。その一例を紹介すると、予算統制分科会は新しい予算制度を誕生させた。予算というとすべて金の面ばかり考えられるが新しい制度は物を対象とすることとした。過去の予算は資金が計画を左右したが、新制度は計画が資金を左右するのである。したがって予算編成は財務担当の手からコントローラーの手へ移った。
(「私の履歴書」経済人十三巻 284,285p)