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東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本興業を全国区に押し上げた人物である。大阪府生まれ。関西学院大学卒。吉本興業に入社し、人気番組「ヤングおー! おー!」(制作・毎日放送:1969~1982年まで放映)などをプロデュース。 1991年に社長就任。
中邨は花菱アチャコのマネジャーを担当し、どんなお客でも満足させる芸人(アチャコ)のプライドを目のあたりにして芸人の心意気を学んだ。その後、演芸部門の再興に取り組み、うめだ花月(大阪市)などの劇場開設に携わり、吉本新喜劇をスタートさせた。
しかし人生は順風満帆ばかりではない。トップとの人間関係で思わぬ事態に発展する。上司の八田竹男と組んで演芸の復活に成果をあげてきていたが、昭和38年(1963)後ろ盾となっていた林正之助社長が体調不良で退任する。代わって東京にいた弟の林弘高が社長に就任した。新社長とともに東京から新しいメンバーが大挙して乗り込んできて、彼らは翌年4月に西日本最大のボウリング場をオープンさせた。東京組の新規事業派と大阪組の演芸派とに派閥ができ、彼は新社長と対立してしまう。
そして昭和43年(1968)6月に突然、彼は「労働基準法20条に基づいて貴下を即時に懲戒解雇する」の内容証明付文書が送りつけられた。しかし、解雇理由は書かれていない。理由を示せと何度も迫ると「軽自動車を買い、私用に流用している」と回答してきた。これは全くの濡れ衣なので弁護士と一緒に徹底抗戦する。そうすると3ヶ月後の9月にもっと驚いた次の文書が送達された。
その後の調査の結果、懲戒解雇の理由がないことがわかったので処分を取り消し、5月27日付けをもって任意依頼退社願いを承認する。
とあった。彼が自ら退社願いを出したことにして落着させるというこの一方的な態度に激怒して、逆に彼から会社に対し、刑事告訴に踏み切った。
晩秋のある日、退任した前社長林正之助が彼の自宅に訪ねてきた。「僕も近く復帰するので、中邨君も戻ってくれんか」と誇り高い前社長が頭を下げてくれた。その後、彼の人柄や実力を知る弁護士や仲間たちが協力してくれたので、「理不尽には徹底抗戦」の裁判に勝ち名誉も回復もできた。そこで彼は復社することに決めたという。
その後は1969年に始まった若者向け人気番組「ヤングおー! おー!」を企画するなど、テレビ局と組んでタレントを売り出す手法を確立した。東京は、人気が出ると思うと先物買いでギャラを高くするが、大阪は芸人の格でギャラを決める。この垣根を壊したのが中邨である。その突破口は明石家さんまだった。中邨は桂三枝(現・文枝)や笑福亭仁鶴、やすし・きよし、月亭可朝らを人気者へと押し上げ関西お笑い黄金時代を築いた。