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1944年、樺太生まれ、終戦後は札幌市で育つ。北海学園大学経済学部卒業後、広告会社に勤めるが仕事がとれず半年で解雇となり、23歳で似鳥家具店を創業した。現在のニトリは1972年に100店・売上高1000億円の30年計画を作って公表し、2003年に1年遅れで達成した。2013年には300店、現在は次の30年に3000店・売上高3兆円という遠大な計画に向けて邁進している。
似鳥の少年時代は、戦後の混乱期のため、家庭では両親の闇米販売の手伝いをしながら手厳しい叱責・指導うけた。また、小学校では勉強のできない貧乏人の子供としていじめられた。ヤミ米屋だったから、仲間から「ヤミ屋」としょっちゅうののしられた。クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はツギハギだらけ。体も小さく、トイレに呼びつけられては殴られていた。いじめられてもいつもニタニタしているので「ニタリくん」とも呼ばれていたそうだ。中学校に行っても境遇は変わらない。力仕事の米の配達もして腕力もあったので、1対1なら負けなかったが、いじめられやすい体質なのか、いつも集団で暴行を受けていた。
あるときは同級生たちに自転車もろとも川に突き落とされたこともある。そのときこのままではダメだと思い、アルバイトで稼ぎ、ケンカに強くなるためボクシングジムに通ったりもした。しかし、境遇を変えるきっかけをついにここで掴んだ。
手先が器用なせいか、そろばんだけは得意だった。珠算部に入り、一心不乱に腕を磨いた。すると約500人が参加する学内の大会で1位に選ばれた。表彰式で校長先生から賞状をもらいに行ったが、校長は私のことを覚えていない。賞状を手渡されるとき、「先生、私は入学前に米を届けた似鳥です」と話すと、「おー、あのときの君か。よく頑張ったな」と喜んでくれた。
自分の得意分野で他人より優れた成績をあげると仲間たちも一目置くようになり、いじめはなくなった。「得意分野を持つ」ことにより、その後の彼は自分の不勉強を持ち前のバイタリティと知恵で克服していく。そして、ヤミ米時代の両親から「仕事も愛嬌と執念が必要」と教えてくれたので、「失敗したらやりなしたら良い」と割り切り、新しい事業に挑戦していった。
家具店から出発してチエーンストアに傾倒する。そして北海道から全国に多店舗展開していく。また、商品も家具だけでなくインテリア全般となり、仕入れも国内から海外にも伸ばし最適調達先を求めた。そして現在は、ユニクロと同じように価格と品質をコントロールできるSPA(製造小売り)に大きく発展させている。リスクを怖れず常に挑戦する姿勢は、自分への自信からだった。