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伊藤は昭和19年(1944)日本アルミニウム専務、戦後21年(1946)社長となった。翌22年(1947)公職追放で退社。解除後、鉱山経営者連盟専務理事、25年(1950)日本精鉱社長、30年(1955)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に復帰、社長に就任した。その後、東北開発株式会社総裁も務めた。彼の災害に遭遇した苦労が国の災害補償や鉱害対策の布石となった。
彼は1890年、山形県に生まれ、大正6年(1917)東大を卒業後、三菱合資に入り、7年(1918)三菱鉱業創設で同社に転じた。大正7年、労務問題に関心を持ち現場を希望したため、兵庫県の生野鉱山行きを命じられ、労務担当としての道を歩み始めた。その後、生野鉱山の支山である明延鉱山や秋田県の尾去沢鉱山などの現場労務に携わった。尾去沢鉱山では約10年過ごしたが、彼が健康を害して東京の本社に異動になった3カ月後、昭和11年(1936)11月、尾去沢ダム決壊の大惨事が突如として起こった。彼は即刻現場視察を命ぜられ、事故現場にたどり着くと、彼の後任者や次席責任者が犠牲者となっていたのに強いショックを受ける。
このダムは鉱山の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱(こう)滓(さい))を堆積させてできたダムだったので、基礎工事がなく基盤が弱いため大惨事に発展した。あっという間に下流の鉱業施設を破壊して市街地に殺到、一瞬にして315名の生命を奪ったのだった。
会社は事態の重大性を考え、すぐさま尾去沢鉱山臨時復興部を設け、彼がその部長に任命された。速やかな死体捜査と遺族や被害者への最低生活ができる施設の復興が急務だった。それに並行して被災者の弔慰金と流失財産の補償があったが、特に流失財産の書画骨董に類するものの評価に苦労する。その上、損害賠償の要求は地上災害だけにはとどまらない。河川や海の漁業補償もあった。鉱泥の流入で稚魚が死滅とか、冬では最盛期の秋田産「はたはた」の絶滅補償だったりした。彼はこの当時を振り返って次のように述懐している。
尾去沢の事故処理は、私にとって大きな試練であった。宇宙の威力というものが、人間生活の転変と建設という事業の上にいかにおおいかぶさっているかということを、私は身をもって感じた。事故発生以来一年半、私の毎日はほとんど着のみ着のままで、時に酒をのんではごろりと横になるという生活が多かった。疲労と偏食も手伝ってか、そのうち私はものすごい全身湿疹にかかり、ついに1カ月入院してしまった。
この惨事が転機となって、鉱滓ダムの建設にはそれまでの商工省管轄から、内務省の土木局に代わり、従来夢想だにしなかったコンクリートダムの建設となり、鉱害対策が大きく前進したのだった。現代で考えれば、コンクリートの基礎工事もない鉱滓ダムの決壊は自然災害ではなく、人為災害に当たるのだろうが、当時の社会通念から許されていたものと思われる。しかし、災害補償の甚大さや彼のその補償苦労が将来の鉱害対策の布石になったことは間違いない。遭遇した災害に立ち向かった彼の苦労は次代の災害対策に生かされたのでした。