美女と才女
樋口久子  
日本女子プロゴルフ協会相談役
生年月日1945年10月13日
私の履歴書  掲載日2016年10月01日
執筆時年齢70 歳

1945年10月13日 –  埼玉県生まれ。女子プロゴルファー。日本女子プロゴルフ協会相談役、元会長。 男女通じてアジア出身選手初のメジャー選手権優勝者。日本人唯一のLPGAメジャー選手権優勝者。優勝回数73回は日本歴代女子最多。日本人初の世界ゴルフ殿堂入り。
中学校時代までは陸上競技選手だったが、二階堂高等学校時代に実姉が勤務していた東急砧ゴルフ場で中村寅吉を知り、ゴルフへの関心を深める。卒業後中村に弟子入りし、川越カントリークラブで練習場のスタッフとして勤務する傍らプロ選手としての下積み生活を経験。1967年に第1期女子プロテストに合格した。
その翌年、日本女子プロゴルフ選手権大会、TBS女子オープン選手権(現・日本女子オープンゴルフ選手権競技)の2大メジャーを連覇。以後1970 – 80年代にかけてこれら2冠を独占するなど日本女子プロゴルフの先駆者としての地位を築く。

1.中村寅吉先生
私の師匠・中村寅吉先生は、言わずと知れた偉大な名選手だ。昭和32年(1957)に埼玉・霞が関CCで行われたカナダカップ(現ワールドカップ)で日本代表として小野光一さんと組み、団体優勝、個人戦も制した。この試合は日本で初めてテレビ中継され、第一次ゴルフブームを起こした。
寅さんの愛称で親しまれたが、指導は厳しかった。私はたった一人の女子だからラッキーで、傾斜地からの打ち方など手取り足取り教えてもらったが、男子には「目で見て盗め」の時代だった。
中村先生は160cm足らずの小柄な体で、大きな外国選手に負けじと飛ばしていた。口を酸っぱくして言われたのは「上体をもっと右に動かせ、もっと動かせ」「上体を捻るんだ」。枠の中で目いっぱい体重移動して上半身を捻るというのが教えだった。先生に肩を押さえられ、ショットを打った。
練習場のマットを外して土の上から打つのは、一番いい練習だった。クラブが滑るマットと違って、ミスをすると結果にすぐ表れるからだ。砂を盛って、バンカーからのクラブの抜き方を教わったり、打席の後方にあったパッティンググリーンののり面を利用して前下がり、左足下がりのショット練習をしたこともある。
22,23歳頃か、川越CCで私が男子と一緒にプレーした時、先生が中村兼吉プロ作製の、ヘッドが1cmほど薄いL字パターを一本だけ持ってラウンドしたことがある。ティーショットからすべてパターだ。低い球でなく、私たちが打つのと同じような普通の高さで、200mは飛んで行った。バンカーにもつかまらず、ショットは正確で、上げたり転がしたりして自由自在。ほとんどパーオンしていた。14本のクラブで回った私のスコアは「39」、先生は「38」だった。

2.イップスをなおす
1968年から74年まで国内で毎年優勝し、31勝を積み重ねていた。ところが75年に突然のスランプに襲われる。米ツアーで1日に3回も3パットをしてしまい、絶不調に陥った。米国や欧州、オーストラリアとの往復で、だんだん打ち方がおかしくなったのだろう。1mの短いパットが怖くてしっかり打てず、俗にいう「イップス」になった。
この時は米国にいたので、帰国を1週間遅らせ、パットの名手だった男子プロのトミー・ジェイコブスにレッスンを受けに行った。1日100ドルで3日間、パットだけを教わった。当時は左に体重をかけて手首を使って打っていたが、「パターが8の字を描いている」と指摘され、アドレスから打ち方まですべて変えた。「パターを吊ってボールを(両足の)真ん中に置き、フェースをカップに合わせたらボールだけを見て打ちなさい」「ニクラウスだって小さく構えて打つ。もっと前傾を低くして」。パターも4,5本持ち込んだが「(ヘッドが重い)マレットを使いなさい」と言われた。
毎日腰が痛くなるまでひたすら練習したかいがあり、パットの恐怖心は消え「しめしめ」と思い、日本に戻った。帰国直後のワールドレディースは12位だったが、翌年から大復活を遂げることになる。

3.全米女子プロで初優勝
1977年の全米女子プロ選手権で、悲願のメジャー初制覇を果たした。スコアは2位のジュディ・ランキン、パット・ブラドリー、サンドラ・ポストに3打差の通算9アンダー。優勝賞金は2万2500ドルだった。70年から8年間、珍道中をしながら支え合った相棒の佐々木マサ子さんがグリーン奥で待っていてくれ、最高の気分だった。表彰式後のロッカー室では、ブラッドリーがロッカーを蹴り飛ばす音が響いていた。
その週は新築のコンドミニアムの一室を借りていた。ピカピカの部屋は気持ちいいけれど、まだカーテンもない。暗くないと眠れないからベニヤ板を窓に立てかけていた。優勝後、宿に帰って食べたが、佐々木マサ子(マー坊)と通訳が作ってくれたそうめんの味は忘れられない。夜にはレストランでささやかな祝勝会も開いた。試合のあったサウスカロライナは、日曜日アルコール販売は禁止。ただ一人、優勝写真を撮ったスポーツ紙特派員の方がわざわざ隣の州に行って赤ワインを、レストランのオーナーに借りたコーヒーカップにつぎ、4人で静かに祝杯を挙げた。
優勝後、予定通り2試合を戦い、凱旋帰国したら羽田空港は大騒ぎ。カメラマンが40~50人ほど駆けつけ、撮影の場所撮りでけんかしていた。「こんなに大勢の人が・・。メジャーを勝ったのは凄いことなんだな」と実感がわいてきた。

 樋口 久子 
Hisako HIGUCHI

樋口久子 三菱電機レディスゴルフトーナメント
2021年10月31日
基本情報
名前 樋口 久子
生年月日 (1945-10-13) 1945年10月13日(78歳)
身長 163 cm (5 ft 4 in)
体重 60 kg (132 lb)
出身地 埼玉県川越市
経歴
プロ勝利数 73
優勝数
LPGAツアー 2
日本LPGA 69
ALPG 1
他ツアー 1
LPGAメジャー選手権最高成績
(優勝: 1)
ANA (3位タイ : 1975, 1976)[1]
全米女子プロ 優勝: 1977
全米女子OP 13位タイ : 1976
受賞
日本女子ツアー賞金王 1968, 1969, 1970, 1971, 1972, 1973, 1974, 1975, 1976, 1978, 1979
成績
優勝回数 73回 米国女子:2回を含む
初優勝 日本女子プロゴルフ選手権大会(1968年)
賞金ランク最高位 日本女子:1位 (11回)
殿堂表彰者
選出年 2003年
選出部門 特別功労
殿堂表彰者
選出年 2013年
選出部門 プレーヤー
2009年2月26日現在
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樋口 久子(ひぐち ひさこ、1945年10月13日 - )は、日本の女子プロゴルファー日本女子プロゴルフ協会相談役、元会長富士通所属。

男女通じてアジア出身選手初のメジャー選手権優勝者。日本人初のLPGAメジャー選手権優勝者。優勝回数73回は日本歴代女子最多。日本人初の世界ゴルフ殿堂入り。

  1. ^ メジャー昇格前
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