美女と才女
米沢富美子  
慶応大学名誉教授
生年月日1938年10月19日
私の履歴書  掲載日2012年6月01日
執筆時年齢73 歳

1938年10月19日 – 2019年1月17日、大阪府吹田市生まれ。
理論物理学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は物性理論、特に固体物理学。アモルファス研究で国際的に知られる。理学博士(京都大学)(1966年)。日本の女性科学者の草分けとして、一般向けの著書や発言も多い。
1961年:京都大学理学部物理学科卒業。同年12月、京都大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程1年のときに結婚し、米沢姓となる。夫の米沢允晴は大学のサークル「エスペラント部」の部長で2年先輩であり、京都大学経済学部卒業後、山一證券に勤務していた。
1963年:6月、夫がロンドンに単身赴任。9月、夫を追いかけて渡英し、京大博士課程1年在学のまま英国キール大学大学院に留学。ロイ・マクウィーニ教授に師事。
1964年:1年間の英国留学を終えて日本に帰国。京大博士課程2年に復学。
1966年:1月、長女を出産。京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了。

1.結婚と英国留学
京都大・大学院修士課程1年の初冬、私は3歳年上の米沢允晴と結婚した。私は2歳の時に父親が戦死したので、「頼れる人」「一緒にいて安心できる人」に憧れていた。しかし結婚を決意する過程で、心は研究中の物理に傾き、求婚を断ろうと決心した。それを察知した彼はこのままでは逃げられると思ったのか、殺し文句を放った。「物理と僕の奥さんと、両方をとることをどうして考えないの」。まったくキザなセリフを吐くヤツだ。しかし、これは彼の本心だった。その頃は結婚したら女は家庭に入るのが当然とされ、「専業主婦」という言葉すらなかった。彼は「両方取る」選択を勧め、結婚は空間と収入を排斥するものではないことを教えてくれた。
 結婚から1年半後の1963年6月、夫は勤務先の留学試験に合格し、ロンドン大学の大学院に1年間留学することになった。社内規則で妻同伴は認められない。私は4月に京大大学院の博士課程に進んでいた。(結婚後は、夫に頼り切ってぬくぬくと生きていた。離れて暮らすのは嫌だった)。
 京大の近くにある図書館で、英国の大学の名前と住所を調べ上げた。30校はあったろうか。「貴校の大学院で物理の勉強をしたいので、奨学金をいただけませんか」。全校の学長宛に切々とした手紙をしたためた。そのうち、2校から「OK」の返事が来た。キール大学は「授業料と寮費、食費は免除」に加えて「いくばくかの奨学金を月々支給する」という涙の出るような条件を出してくれた。その年の9月初め、ロンドン空港に降り立った。羽田で夫を見送った日からわずか3か月後だった。

2.「不規則系の新理論」の発見
1967年、二女を妊娠中にこの論文を発表した。この理論はすぐに世界的に認められ、私の出世作となる。この研究の最終段階まであと一歩のところで、なかなか視野が開けない。1日4時間睡眠で机に向かっていたある日、新しいアイデァが突然ひらめいた。「これだっ!」。雷に打たれたような衝撃に、体の震えが止まらない。興奮の第一波が過ぎると、次にこれを論文に書くことが今回はとりわけ難しいと気づいた。数学的にかなり複雑な内容だ。
 大学院時代の指導教授、松原武先生の口癖を思い出し、すべての精力と時間を3等分して、「テーマ探し」「実際の研究」「論文書き」に配分せよ、を実行した。2番目の「実際の研究」が全てだと思い込む傾向があるが、本当は、最も適切なテーマを掘り出す1番目と、成果を確実に発表する3番目も同じくらいに重要だと叩き込まれていたからだ。
 新理論は、361個の全交点がいわば「灰色」の碁石で占められていると考えるもので、多くの実験結果をうまく説明できる。ただその「灰色さ」が鍵で、白石と黒石の数の割合を反映した「複素数」の効果を持つ灰色となる。複素数とは実数部分と虚数部分の両方を持つ数である。私はこの複素数を数学的な解析から導いた。

3.湯川教授の基礎物理研究所
当時、この研究所の所長は湯川秀樹先生だった。研究室は素粒子が2つ、原子核と物性物理が1つで、計4研究室。それぞれに教授、助教授、助手がいて、所員は12人になる。所員以外にも、国内外からの短期、長期滞在者が常時何人もいて、所員の部屋やロビーで最先端のテーマを議論している。外部からの滞在者は名前を聞けば、「ああ、この人があの著名な・・・」と思い当たる人ばかりだった。
 物理学は対象とする素材で分類されることが多い。原子や電子を素材にする「物性物理」、原子の中の原子核を素材とする「原子核物理」、クォークなどの素粒子を対象とする「素粒子物理」などが大雑把な分類である。大きい方は、地球物理、天体物理、宇宙物理が挙げられる。
 しかし湯川先生は「物理は一つ」と主張されていて、専門に閉じこもることを良しとされなかった。週に一度の研究所のゼミも、専門と関係なくてすべての所員と滞在者が参加して、交代で話をする。おかげで私も門前の小僧よろしく、他の分野で起こっていることをリアルタイムでフォローできた。
 湯川先生は物理に関しては厳しいが、普段は優しかった。昼は10人ほどの所員や滞在者が出前のお弁当をとり、湯川先生と一緒に所長会議室の長いテーブルを囲む。なぜか先生の真向かいの椅子が私の指定席になった。先生は話し好きで、本当に楽しそうにあれやこれやの話題を出される。物理や哲学の話ばかりでなく、政治や経済や世間の噂なども議論した。

米沢 富美子(よねざわ ふみこ、女性、1938年10月19日 - 2019年1月17日[1][2])は、日本理論物理学者慶應義塾大学名誉教授。専門は物性理論、特に固体物理学アモルファス研究で国際的に知られる。理学博士京都大学)(1966年)。大阪府吹田市生まれ。旧姓名、奥 富美子

日本の女性科学者の草分けとして、一般向けの著書や発言も多い。

  1. ^ “米沢富美子氏死去=慶応大名誉教授・理論物理学”. 時事通信社. (2919年1月21日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2019012101206&g=soc 2019年1月22日閲覧。 
  2. ^ “米沢富美子さん死去 日本女性科学者の草分け的存在”. 朝日新聞デジタル. (2019年1月21日). https://www.asahi.com/articles/ASM1P6F02M1PULBJ011.html 2019年1月22日閲覧。 
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